江戸時代、街道宿駅の常備人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたす場合、補助的に人馬を提供する宿駅近傍の郷村、またはその課役・制度をいう。このような助郷の概念規定のあいまいさは、その成立時期について諸説を生んでいる。まず、鎌倉幕府の執権北条氏の交通政策、豊臣(とよとみ)政権の宿駅の人馬超過に関する法令に、助郷の濫觴(らんしょう)または成立を認める説、さらに江戸幕府の1603年(慶長8)、1616年(元和2)、1637年(寛永14)、あるいはその後の交通政策に指標を求める説などがあるが、これらは事実上助郷の機能を果たすものと、幕府権力が指定した強制的賦役としての助郷とに対する理解の違いによるところが大きい。
幕府は1694年(元禄7)新たに助郷制を画定したが、それは従来の助郷が封境・国郡を限界としたのを改めて、各宿駅近傍の村々を付属助郷に指定し、高100石につき2人・2疋(ひき)の人馬役負担とした。そして東海道宿駅では定(じょう)助郷・大(おお)助郷の二本立て、中山道(なかせんどう)・日光道中は大助郷のみ、奥州・甲州両道中では幕府指定の助郷はないが、臨時に宿駅近傍の人馬を徴発する態勢をとった。1725年(享保10)東海道では定助郷・大助郷を統一して定助郷に一本化し、中山道などでも大助郷を定助郷と改称した。ここに助郷制度は確立するが、元禄(げんろく)度の人馬負担基準はなんら歯止めとならず、江戸後期にはその数百倍に達した。定助郷は宿駅近傍の10~20数か村からなる基本的な助郷で、本助郷ともいうが、負担過重のため疲弊して他の郷村が代役を勤める代(だい)助郷以下、課徴範囲を拡大した加(か)助郷、増(まし)助郷、当分助郷など、各種名目の助郷が次々に設定されていった。
こうした傾向は宿駅と各種助郷以下との人馬役負担・賃銭配分をめぐる紛争を激発させ、このため定助郷村などは助郷惣代(そうだい)を宿場内の助郷会所に派遣、宿役人らの不公正な取り計らいを監視させている。宿駅・助郷間の諸矛盾が、幕府権力や宿駅問屋、名主、豪農らに対する広範な農民大衆の抵抗として爆発したのが、1764~65年(明和1~2)の武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、信濃(しなの)および下野(しもつけ)の一部にまたがり参加者20万人余に上る伝馬(てんま)大騒動である。その後、宿駅と助郷とは、複雑で多様な対立・抗争を繰り返し、幕末期には訴願・強訴を含めた助郷反対闘争を展開、世直し一揆(いっき)へと突き進んでいった。なお、脇(わき)街道の宿駅では、定助、加助、大助などの助郷が設けられたが、そうでないところでも全藩的または郡規模の人馬徴発が行われ、その役負担は過重化の一途をたどっている。助郷は1872年(明治5)の陸運会社の設置によって完全に廃止された。
[丸山雍成]
『丸山雍成著『近世宿駅の基礎的研究』全2巻(1975・吉川弘文館)』
近世の宿駅が常備人馬(伝馬)で負担しきれぬ大通行のとき,補助的に人馬を提供する助人馬出役を定められた村をさすが,この助人馬をも助郷,あるいは助郷役という。幕府直轄の五街道のうち往来のさかんな東海道,美濃路では,恒常的な助馬助成を特定の村に依存する必要が早くから生じ,1637年(寛永14)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めている。その後寛文期(1661-73)に中山道,日光道中をも加え,助馬村の恒常的な制度化としての定(じよう)助(定助郷)を生み,さらにその後定助では不足のときに人馬を補う村を定め,これを大(だい)助と呼んだ。しかし,これらの助郷は支配関係にとらわれ,宿駅近くの村を含まないのが一般的で,また村落はすでに小農中心の村に変容しており,そのため幕府は1694年(元禄7)より助郷制改革を断行した。すなわち定助,大助を東海道の品川~岡崎間の宿駅に,大助を他の東海道宿駅と美濃路宿駅と木曾を除く中山道宿駅とに設け,2年後には日光道中宿駅にも大助を設け,宿問屋が支配関係を異にする村からも助郷帳に定める助郷高に応じて,人馬を直接徴発することになった。ただ交通量は依然として増加し,その負担は助郷に転嫁されたので助郷村の疲弊を招いた。そこでその対策を必要としたが,結局品川~岡崎の助郷が1725年(享保10)に定助に統一されるにとどまった。このときに他の宿駅の大助も実質は定助となったとされているが,これらの定助村は宿駅へ頻繁に通い勤めすることが可能な近域の村方をほぼ網羅していた。同期の奥州,甲州両街道では道中奉行,勘定奉行の指定する助郷は設けられていないが,支配領主が指定する助人馬を出す村が存在した。一方,五街道外の脇往還でもそれぞれ領主が大通行に備え,宿駅に助人馬を差し出す郡や村組や特定の村々を指定することが広くみられた。
五街道では享保以後も年を追うごとに助郷負担は増大した。助郷役は農繁期に多く,また宿駅の不正な割当ても多く,宿と定助間で割付けをめぐる争論が多発し,この結果,助郷惣代を設け助郷会所で助郷利用を監視する宿が増大した。また,窮迫した定助村が休役を願うことが宝暦期(1751-64)には広範化し,代りに指名される村との間での争論も増大した。代りに務める代助郷は一般に遠隔地のため,代金納にすることが多かった。この人馬請負の稼ぎと宿助郷の負担軽減のため宿駅,定助は助郷拡大を望み,また幕府も定助を補う加(か)助郷,増(まし)助郷,当分助郷などの諸種の助郷を設け宿駅制維持に努め,これらに指定される村と宿,定助との対立もしばしば発生した。幕末には宿伝馬利用が激増し,助郷の指定が広範に行われ,宿,助郷の負担を増大させるとともに,両者間の緊張を高めた。幕府を倒した明治維新政府は1868年(明治1)5月,助郷拡大に加え宿駅と勤方を均等にする制度を実施したが,2年後には農民の反対により元どおりとし,さらに72年に伝馬所とともに助郷を廃止し,助郷は消滅した。
→駅逓司
執筆者:深井 甚三
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江戸時代,街道の宿駅で継ぎ立てるべき人馬が宿内でまかなえない場合に,これを補う周辺村々,またその負担のこと。主要街道では早くから事実上の助郷(相対助郷)がみられたが,参勤交代制の確立などにともなう交通量の増大で,1637年(寛永14)東海道などに助馬村が設定された。94~96年(元禄7~9)の助郷帳発給により,特定村を指定して伝馬役負担を強制する厳密な意味での助郷制(指定助郷)が確立した。各地の脇往還でも幕藩領主により同様の助郷が設定されていった。助郷の中心は恒常的にこれを勤める定(じょう)助郷だが,負担軽減のため大助郷・代(だい)助郷・加助郷・増(まし)助郷・当分助郷などが周囲に設定された。伝馬役を百姓固有の役とする観念ともあいまって助郷の範囲は拡大する傾向にあり,近世後期には免除訴願や宿・助郷間の抗争が頻発した。助郷の負担は大きかったが,宿駅並の特権獲得の論拠となったり,村内下層民には稼ぎの機会にもなった。1868年(明治元)新政府は海内一同の助郷を宣言し改革を進めたが,貫徹されず,72年伝馬役とともに助郷も廃止された。
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…1764‐65年(明和1‐2)武蔵国を中心に起きた助郷(すけごう)役増徴反対の百姓一揆。64年8月,江戸幕府は中山道の伝馬助郷役不足の解決と,翌年にせまった日光東照宮百五十回忌の交通量増大に対処するため,増助郷(ましすけごう)課役の方針をうちだし,板橋宿から和田宿までの武蔵,上野,信濃28宿の村々に高100石につき人足6人,馬3疋の増助郷を命じ,人馬役負担の困難な村には代金として高100石につき金6両2分を提出させようとした。…
…問屋場へ詰めるのは問屋・年寄の宿役人と帳付・馬指(うまさし)・人足指などの実務に当たる者で,通常は交代で出勤するが,大通行のときには全員が詰める。問屋場で扱うのは公用またはそれに準ずる武家・公家あるいは書状・御用物等であるが,宿人馬で不足のときには助郷(すけごう)の人馬を寄せ集めておき,ときには数百頭数千人にも及ぶ人馬を差配するから,戦場のような騒ぎになった。公用旅行の武士などは権威に乗じて横暴を極め,問屋場詰の役人を苦しめた。…
※「助郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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