河村庄
かわむらのしよう
現菊川町の中央部を庄域としたと推測される。同地域には大字に本所・半済・西方があり、ほかに公文名(西方のうち)・庄司田(潮海寺のうち)など庄園に由来する地名が多い。京都下鴨神社(賀茂御祖神社)とのかかわりが深く、寛治四年(一〇九〇)七月一三日、賀茂御祖社の御供田と認定を受けたとされる所領のなかに「遠江国河村庄 公田三十町」とみえる(「賀茂御祖皇大神宮諸国庄園」賀茂社文書)。文永一〇年(一二七三)には賀茂社の築垣造営を負担している(同年六月三日「賀茂社築垣用途注進状写」賀茂社諸国神戸記)。一方、嘉応二年(一一七〇)と推定される官宣旨案(民経記寛喜三年一〇月記紙背文書)によると、当庄は九条民部卿が遠江国主だった時に山城松尾社(現京都市西京区)に寄進され,のち京都新日吉社(現同市東山区)に寄進しなおされている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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