後土御門天皇(読み)ゴツチミカドテンノウ

デジタル大辞泉 「後土御門天皇」の意味・読み・例文・類語

ごつちみかど‐てんのう〔‐テンワウ〕【後土御門天皇】

[1442~1500]第103代天皇在位1464~1500。後花園天皇の第1皇子。名は成仁ふさひと。在位中に応仁の乱が起こった。歌集「紅塵灰集」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「後土御門天皇」の意味・読み・例文・類語

ごつちみかど‐てんのう‥テンワウ【後土御門天皇】

  1. 第一〇三代天皇。後花園天皇の第一皇子。母は嘉楽門院信子。名は成仁(ふさひと)。寛正五年(一四六四践祚(せんそ)し、翌年即位。在位中に応仁の乱が起こり、朝廷の儀礼、祭事は衰微した。在位三七年。和歌を好み、歌集に「紅塵灰集」がある。嘉吉二~明応九年(一四四二‐一五〇〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

後土御門天皇
ごつちみかどてんのう
(1442―1500)

第103代天皇(在位1464~1500)。名は成仁(ふさひと)。法名正等観。後花園(ごはなぞの)天皇の子。母は藤原孝長の女(むすめ)で、内大臣大炊御門(おおいみかど)信宗の猶子(ゆうし)になった嘉楽(からく)門院信子。父天皇の譲を受けて位につき、応仁(おうにん)の乱に際会してつぶさに苦難をなめ、明応(めいおう)9年9月28日崩御。そのとき費用がなく葬儀を行うことができず、内裏(だいり)黒戸に遺骸(いがい)を置くこと40余日、11月11日ようやくにしてこれを執り行うをえた。同天皇には歌集が種々存したことが諸書にみえるが、今日に伝存するものとしては、『紅塵灰集(こうじんかいしゅう)』と称する1巻、『百日和歌詠草』の1巻が著聞する。京都の深草北陵に葬る。

[村田正志]

『列聖全集編纂会編・刊『御撰集』第1巻(『列聖全集 13』1915)』

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改訂新版 世界大百科事典 「後土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

後土御門天皇 (ごつちみかどてんのう)
生没年:1442-1500(嘉吉2-明応9)

第103代に数えられる天皇。在位1465-1500年。後花園天皇の第1皇子,名は成仁(ふさひと)。1464年(寛正5)践祚。在位の間に応仁・文明の大乱が起こり,皇室式微の時代を迎えた。戦禍財政逼迫のため,皇居も転々とし,朝儀も途絶えがちとなったが,天皇は朝儀の維持存続を心がけ,有職故実の研究や儀式の習礼廷臣に奨励した。また和歌,連歌に長じ,《紅塵灰集》《いその玉藻》などの歌集がある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後土御門天皇」の解説

後土御門天皇 ごつちみかどてんのう

1442-1500 室町-戦国時代,第103代天皇。在位1464-1500。
嘉吉(かきつ)2年5月25日生まれ。後花園天皇の第1皇子。母は藤原信子(嘉楽門院)。父の譲位をうけて即位。その3年後におきた応仁(おうにん)の乱で,京の都は戦火にあれ,社会不安は地方にまでおよんだ。幕府の権威はおとろえ,財政は窮迫して朝儀もままならず,何度も譲位をかんがえたという。明応9年9月28日死去。59歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は成仁(ふさひと)。法名は正等観。歌集に「紅塵灰集」など。
【格言など】ともすれば道にまよへる位山うへなる身こそくるしかりけれ(「後土御門院御集拾遺」)

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百科事典マイペディア 「後土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

後土御門天皇【ごつちみかどてんのう】

室町後期の天皇。在位1465年−1500年。後花園天皇の第1皇子。諱(いみな)は成仁(ふさひと)。即位後まもなく起こった応仁・文明の乱により朝廷の財政は逼迫,皇居も度々の移転を余儀なくされた。このような中,天皇は中絶した朝儀の再興に努めた。また和歌・連歌をよくし,歌集に《紅塵灰集》《いその玉藻》などがある。
→関連項目後柏原天皇

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後土御門天皇」の解説

後土御門天皇
ごつちみかどてんのう

1442.5.25~1500.9.28

在位1464.7.19~1500.9.28

後花園天皇の第1皇子。名は成仁(ふさひと)。母は嘉楽門院信子。1457年(長禄元)親王宣下。64年(寛正5)践祚(せんそ)。即位後まもなく応仁・文明の乱がおこり,京都は焦土と化した。皇室御料地も各地で武士の侵略をうけ,朝儀も衰微。1500年(明応9)黒戸御所で没したが,葬礼費用が調わず,遺骸は43日も御所におかれたのち,泉涌寺に葬られた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後土御門天皇」の意味・わかりやすい解説

後土御門天皇
ごつちみかどてんのう

[生]嘉吉2(1442).5.25. 京都
[没]明応9(1500).9.28. 京都
第 103代の天皇 (在位 1464~1500) 。名は成仁 (ふさひと) 。後花園天皇の第1皇子。母は嘉楽門院信子 (藤原孝長の娘) 。寛正5 (1464) 年践祚,翌年即位。在位中に応仁の乱が起った。歌集に『紅塵灰集』がある。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。

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367日誕生日大事典 「後土御門天皇」の解説

後土御門天皇 (ごつちみかどてんのう)

生年月日:1442年5月25日
室町時代;戦国時代の第103代の天皇
1500年没

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