河野通清(読み)こうの・みちきよ

朝日日本歴史人物事典 「河野通清」の解説

河野通清

没年養和1(1181)
生年:生年不詳
平安後期の武士。親清の子。伊予国風早郡河野郷(愛媛県北条市)を本領とし,伊予権介に任じて河野介と称した。治承4(1180)年源頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際,伊予国内で競合関係にあった高市氏が平家と結んでいたことから,通清も同年冬に挙兵。国中を管領して正税官物を抑留した。しかし,翌養和1年,平家方の備中国住人沼賀(奴可)入道西寂に攻められ,高直(高縄)城にたてこもって戦ったが,敗れて討死した。通清が討たれたことについて,都の貴族吉田経房の日記『吉記』同年8月23日条には「伊予国在庁川名大夫通清被討伐云々」と記されている。<参考文献>山内譲「伊予国における武士団成立展開」(『日本歴史』379号)

(野口実)

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世界大百科事典(旧版)内の河野通清の言及

【河野氏】より

…中世の伊予国(愛媛県)の豪族。古代の越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。風早郡河野郷(現,北条市)を根拠地とする。源平合戦時に,通清・通信父子が源氏方にくみして勢力をのばし,戦後は御家人の地位を得て伊予国最大の武士団に成長した。その支配領域は,風早郡を中心にして中東予に及んだ。承久の乱(1221)では通信が京方に味方し,所領所職の大半を失ったが,その子通久が鎌倉方についたのでかろうじて命脈を保った。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」