朝日日本歴史人物事典 「河野通清」の解説
河野通清
生年:生年不詳
平安後期の武士。親清の子。伊予国風早郡河野郷(愛媛県北条市)を本領とし,伊予権介に任じて河野介と称した。治承4(1180)年源頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際,伊予国内で競合関係にあった高市氏が平家と結んでいたことから,通清も同年冬に挙兵。国中を管領して正税官物を抑留した。しかし,翌養和1年,平家方の備中国住人沼賀(奴可)入道西寂に攻められ,高直(高縄)城にたてこもって戦ったが,敗れて討死した。通清が討たれたことについて,都の貴族吉田経房の日記『吉記』同年8月23日条には「伊予国在庁川名大夫通清被討伐云々」と記されている。<参考文献>山内譲「伊予国における武士団の成立と展開」(『日本歴史』379号)
(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報