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波多野鶴吉 はたの つるきち

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

波多野鶴吉 はたの-つるきち

1858-1918 明治-大正時代の実業家。
安政5年4月1日生まれ。小学校教師をへて,明治19年郷里京都府何鹿郡(いかるがぐん)蚕糸業組合の組長となる。29年郡内の養蚕家,製糸家の協力で綾部町に郡是(ぐんぜ)製糸(現グンゼ)を創立し,34年社長。クリスチャンとして女子工員教育にも力をそそいだ。大正7年2月23日死去。61歳。本姓は羽室。

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朝日日本歴史人物事典の解説

波多野鶴吉

没年:大正7.2.23(1918)
生年:安政5.2.13(1858.3.27)
明治大正期の製糸家。郡是製糸会社の創設者。丹波国何鹿郡延村(京都府綾部市)の豪農羽室嘉右衛門の次男。母は富美。慶応2(1866)年に馬場村(綾部市)の波多野家の養子となる。18~20歳のころ,京都で放蕩生活を送り,養家の資産を使い果たした。しかしこの経験がのちの製糸事業への精進や人格的成長につながったようである。明治19(1886)年に何鹿郡蚕糸業組合長に就任し,20年には10人繰りの製糸工場羽室組をはじめた。さらに前田正名の影響を受けて,29年には,郡の経済発展を蚕糸業振興に求める考えのもとに,その精神を社名に反映させた郡是製糸会社を郡内の有力者と共に創立した。郡内の養蚕農民などから出資を募り,多くの零細な株主層が同社の特徴であった。23年に洗礼を受け,郡是製糸の幹部社員,女工たちにキリスト教に基づく精神教育を行った。34年同社社長となり,養蚕農民との密接な関係のもとに蚕種の配付を通じて優良繭を確保し,相対的に良好な労働条件を与えて,経糸用の優良糸を生産した。そして明治末から第1次大戦期に工場数を急増させて大きく経営規模を拡大し,同社を昭和戦前期に片倉製糸に次ぐわが国第2の巨大製糸企業に発展させた。工場建設の際にも自分で大体の設計をしたといわれるなど,器用な面もあった。<参考文献>村島渚『波多野鶴吉翁伝』,『郡是製糸株式会社60年史』

(松村敏)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

波多野鶴吉
はたのつるきち
(1858―1918)

明治・大正期の実業家。郡是(ぐんぜ)製糸(現グンゼ)の創立者。京都府何鹿(いかるが)郡中筋村(現綾部(あやべ)市)羽室(はむろ)家の次男に生まれ、9歳のおり波多野家の養子となる。1876年(明治9)京都に出、京都中学で数学を、さらに大阪に移って勉学を続けたが、81年帰郷して小学校教師となった。4年3か月の教員生活ののち、86年3月には新設の何鹿郡蚕糸業組合の組長となり、高等養蚕伝習所を創設して指導者の養成にも努めた。前田正名(まさな)の視察・来郡が契機ともなって96年、京都府中丹地方の蚕糸業の展開を背景に郡是製糸を創業した。成行(なりゆき)約定や正量取引を始めエキストラ格の生糸輸出を行い、また熱心なクリスチャンとして工女教育にも力を注ぎ、広く日本の蚕糸業の発展に尽力し、片倉と並ぶ独占製糸資本に郡是を育て上げた。[加藤幸三郎]

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