日本歴史地名大系 「津江山」の解説 津江山つえやま 大分県:日田郡津江山日田郡の南部、現前津江(まえつえ)村・中津江村・上津江村とこれらの北東に連なる大山(おおやま)町にわたる一帯に比定される。山名をいう場合もあるが、個別の山ではなく、これらの山嶺地の広域通称であり、また太宰府天満宮安楽寺の支配単位の呼称でもあった。「百錬抄」安貞二年(一二二八)七月六日条に「津江山住人等」とみえるのが早い例であるが、日田郡司職次第(東京大学史料編纂所謄写本)に治承・寿永の内乱に参加した日田永俊が日田庄五郷内曰理(わたり)・石井(いしい)両郷ならびに大山村を分割譲与されたと主張したとあり、津江山はこの石井郷の大半と大山村をさすものと考えられる。安貞二年安楽寺は嘉禄元年(一二二五)五月頃、津江山住人が作畠の際に金銅鉾二振を発見した旨を報告しており、安楽寺領であったと考えられる。延元三年(一三三八)一一月七日長谷部信経は津江山内兵藤(ひようど)村(現上津江村)を朴木方丈(大智)に寄進し、同月一五日にも津江山内兵藤村太平山兜卒(とそつ)寺敷地を大智に寄進しているが(「長谷部信経寄進状」広福寺文書)、長谷部氏は三条宮侍長谷部信連を祖とするという伝承があり、同氏から津江氏が派生する。兵藤は肥後国境、現上津江村川原(かわばる)の兵戸に比定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報