栃原村(読み)とちばるむら

日本歴史地名大系 「栃原村」の解説

栃原村
とちばるむら

[現在地名]中津江村栃野とちの

現中津江村域の東部を占め、鯛生たいお川流域の栃原・二又ふたまた鶴田つるだ平野ひらのはる黒谷くろだに八所やところ原部はらべ木弓きゆみ間地まじなどの集落がある。北部に出雲いずも(八四七・七メートル)がそびえる。慶長六年(一六〇一)の両津江田畠物成帳(佐伯藩政史料)に「とち原村」とみえ、津江の内として把握されていた。同年の予州替地御知行所目録(同史料)では高八二一石余とあるが、これは梅野うめの村などを含むようである。同七年の日田郡・玖珠郡御預米帳(同史料)には栃原村五左衛門大豆一〇三石余・同米一〇石余などと記される。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]戸隠村栃原

荒倉あらくら山の東南にあり、同山麓の高原にある散村。北は戸隠神社領と境し、南は断崖をもって裾花すそばな川に臨む。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「千七拾九石五斗三合 栃原村」とある。慶長九年「奈良尾ならお村」「上和野原うわのはら村」「楠川くすかわ村」とともに四ヵ村となり(長野県町村誌)、楠川の一部八石八斗分が戸隠神領になって上楠川村と称し、上野うわの村のうち二条一一一石が同じく戸隠神社領になった。

栃原村
とちわらむら

[現在地名]下市町大字栃原

栃原岳の北麓に立地。大塔家おとが西坊にしぼう中村なかむら下村しもむら奥垣内おくがいとの五集落からなる。御領ごりよう郷のうち。慶長郷帳では村高四六八・五八石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地で村高は五六四・四三七石となった。

天保六年(一八三五)の栃原村々明細帳(桐山家文書)によると、村高五六〇・四三七石(反別四六町四畝一四歩)、山年貢銀一〇八・七五匁、藪年貢銀四・三匁、栢年貢銀九六・六匁(栢木一八〇本)、家数一〇〇(小家・借屋とも)、公蔵九、物置八、人数五七三(男二九九、女二七四)、牛一、馬一、農間稼は「男者作間ニ荷物人申候、女ハ作間ニ糸致申候」となっている。

栃原村
とちわらむら

[現在地名]佐治村栃原

なか村の西にある佐治川最上流部の村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「トチバラ」と訓ずる。集落から南東の方角に高さ一〇丈余の登々呂ととろヶ滝がある。当村から南西の国境田角たずみ(現辰巳峠、恩原越ともいう)まで二一町余、峠から美作国西西条さいさいじよう上才原かみさいばら(現岡山県上齋原村)までは二里二五町。南の同国西北条さいほくじよう越畑こしはた(現同県鏡野町)へは三里一四町余だが、坂道は狭く牛馬は不通。美作の奥原おくはら越を抜けて伯耆国河村かわむら穴鴨あながも(現三朝町)まではおよそ一〇〇町(因幡志)

栃原村
とちはらむら

[現在地名]額田町河原かはら

おと川支流の河原川と乙女おとめ川の合流点付近に集落が立地。東は河辺こうべ村、西は滝尻たきじり村、南は雨山あめやま村・大代おおじろ村、北は中金なかがね村・石原いしはら村と各々山で接する。

中世、男川おとがわ庄に属したというが、本宮ほんぐう砥鹿とが大明神との関連で砥鹿庄に属したと考えられる。天文年間(一五三二―五五)頃には作手つくで(現南設楽郡作手村)城主の奥平氏の勢力圏になっていたと考えられる。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]利賀村栃原

下原しもばら村の南西、庄川左岸に位置し、村域は礪波平野と庄川流域の分水嶺となる大寺おおでら(九一九・一メートル)の東側、庄川を見下ろす段丘状平坦地に広がる。北西方の栃原峠を越え井波いなみ町と結ばれる道がある。文明一三年(一四八一)福満ふくみつ(福光)城主石黒光義の攻撃の近いことを知った井波瑞泉ずいせん寺では、一戦に及びもし味方軍に利なき時は栃原峠を越えて五箇山ごかやまに隠れるという戦術を決めている(闘諍記)

寛永七年(一六三〇)の高一三〇石余、免四ツ八分八厘、納所金子二一両二匁七分余・塩硝代二匁余、この代銀九七一匁余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)

栃原村
とちばらむら

[現在地名]溝口町栃原

大山西麓のなだらかな裾野の村で、白水しらみ川中流左岸に位置する。西は大坂おおさか村。大山領で奥組(山手組)に属した。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では高一一三石余(鳥取県史)。宝暦七年(一七五七)の山手組定免平均帳(吉川家文書)によると高一一四石余、うち本村分八一石余の免四ツ六分四厘、丸林分三二石余の免三ツ二分一厘、物成は計四七石余。同一二年の人数二三四(日野郡史)

栃原村
とちはらむら

[現在地名]猪名川町栃原

木間生こもお村の北にあり、南東は槻並つくなみ村。村の南部を丹波への道が東西に通じ、その北側を猪名川が東流する。中世は多田ただ庄のうちで、文明一八年(一四八六)の多田庄段銭結解状(多田神社文書)に栃原村とみえ、新田方分として「四町九段内 一段大廿歩 平瀬方跡 栃原衛門沙汰分」とあり、一貫九三九文の段銭を納めている。永正三年(一五〇六)にも一貫五〇〇文を納めている(「多田庄段銭結解状」同文書)。天文一二年(一五四三)伊勢御師が売渡した道者のなかに「とちわら」が含まれていた(一〇月二日「道者売券」神宮文庫蔵輯古帳)

栃原村
とちわらむら

[現在地名]美山町大字高野たかの 栃原

つるおか一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川左岸に位置する山間集落。北(川の上流)砂木すなぎ村、川を下ると対岸は今宮いまみや村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高九八・二四八石、旧高旧領取調帳では二四七・五七九石。

栃原村
とちばらむら

[現在地名]大子町栃原、那珂郡山方やまがた久隆くりゆうの一部

久慈川の支流大沢おおさわ川の水源部にある山村。東は大沢村。「水府志料」は古くは大沢・栃原・下小川しもおがわの三村を合せて「栗生」の地と推定する。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「とち原村」とみえ、同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)の村々高寄新家惣右衛門分に「栃原村」「同所新田」とあり、同二一年の御知行割郷帳にも「栃原村新田共ニ」と記され、大半が畑地で田は一石六斗四升八合であった。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]野津町西畑にしはた 栃原とちわら

鼓石つづみいし村の北東にあり、臼杵うすきおか城路が北東から南西に通る。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には「木原村」がたにひら村など二ヵ村分と一括された一冊が含まれ、この「木原村」が当村にあたると推定される。村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高六六石余。下畑組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高四八石余・出来高一九石余、田方四五石余・畑方二三石余、桑山などあり、日損所と注記される。

栃原村
とちわらむら

[現在地名]直入町長湯ながゆ 栃原

湯原ゆのはる村の南西、せり川中流南岸に位置し、トチハルとも称した(豊後国志)正保郷帳に村名がみえ、田高一四九石余・畑高六一石余、朽網くたみ郷に属した。旧高旧領取調帳では高二六一石余。岡藩領時代は長野組に属し、当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。嘉永四年(一八五一)の軒数二一・人数一〇〇、馬二四(「軒別作高人別牛馬書上帳」戸伏家文書)。文化八年(一八一一)の岡藩百姓一揆の際、当村の馬喰宅が打毀にあった(百姓騒動見聞記)。江戸後期の岡藩領豪農百撰に郡右衛門・郡蔵の二名がみえる(「農家百人撰」北村文庫)

栃原村
とちばらむら

[現在地名]呉市栃原町

東は賀茂郡郷原ごうはら阿賀あがの両村、西は焼山やけやま村、北は苗代なわしろ村に接し、安芸郡に属した。北を除く三方を標高四〇〇―七〇〇メートルの山地に囲まれる。とくに南部ははいみねの北斜面で、村内は山がち。北部に狭い平坦地があるが、その標高は三〇〇メートル近くに達する。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高一七一・七五八石とあるが、正保三年(一六四六)の安芸国安南郡栃原村地詰帳(「呉市史」所収)では田畑屋敷畝数一二町二反余(うち田方九町八反余)、分米一一一・七三八石(うち田方九九・七七石)とあり、「芸藩通志」もこれを踏襲。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]生野町栃原

川尻かわしり村の西に位置し、栃原川と倉谷くらたに川が合流する。北に達磨だるまヶ峰があり、西の平石ひらいし山の北側に千町せんちよう峠がある。播磨国神西じんさい郡に属する。播磨国慶長国絵図に「栃原村」とみえ、正保郷帳では田高二三九石余・畑高八一石余。鎮守は八幡神社。高野山真言宗の福応ふくおう寺、臨済宗妙心寺派の少林しようりん寺がある。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]大台町栃原

柳原やないばら村の西にあり宮川の支流にごり川に沿う。「神鳳鈔」に「杤原御薗」がみえ、中世は伊勢神宮領であった。字本郷ほんごうの北西部の山間に、古戦場こせんじよう五百羅漢跡ごひやくらかんあとの地名がある。古戦場には、天正年間(一五七三―九二)北畠・織田両氏の戦場となったという伝承がある。栃原は茶の生産地として知られ、京都南禅寺の僧が五百羅漢寺の僧に茶の種を贈ったことに始まるという。五百羅漢寺跡とよばれる付近には現在でも山林の間に茶の木をみることができ、大台茶の発祥地ともされる。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]永平寺町栃原

九頭竜くずりゆう川の北岸、わしヶ岳(七六九・一メートル)の南西麓に位置し、西は吉波よしなみ村、南東の対岸は北島きたじま(現上志比村)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高四五二・四五石。正保郷帳によれば田方二一九石余・畠方二三九石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。

安永二年(一七七三)の福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、石高は四五九・四四七石で、うち一〇〇石は給人渡、田方一四町二反余・畑方二一町六反余。

栃原村
とちばらむら

[現在地名]掛川市原里はらさと

原野谷はらのや川の左岸にあり、南は桑地くわじ村・上垂木かみたるき村。慶長六年(一六〇一)二月一四日の伊奈忠次手形(旧持智院文書)によると、「とちはら持知院」に以前のように寺領一石が与えられている。正保郷帳に村名がみえ、田方三八石余・畑方一五石余、掛川藩領(幕末に至る)、ほかに慈持院(現曹洞宗持智院)領一石がある。文政一二年(一八二九)の御高等書留によると御林、威鉄砲三があり、高七七石余(うち新田二四石余)、毛付高五五石余の納辻米八二俵余・大豆一俵余、小物成は鮎運上五〇〇文、家数二一(本家一八・柄在家三)・人数一〇四、馬三。

栃原村
とちはらむら

[現在地名]清和村小峰おみね

東は尾野尻おのじり村、西は小峯おみね村、南は猪尾いお村に接する日向往還沿いの村。文明四年(一四七二)八月二八日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(阿蘇家文書)に「とちわら殿」とあり、家数二〇が記され、同一六年八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)に「とち原二百文、まめ一斗」「とち原百五十文、まめ一斗」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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