津積郷
つつみごう
「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。この郷の初見は、八世紀中頃の貢進仕丁歴名帳(正倉院丹裏古文書)に「甚目連乎佐美年
九尾張国海部郡津積郷戸主甚目連久良為戸口」とあるもので、当郷に甚目連久良の戸があったことが知られる。この歴名帳は、天平勝宝五年(七五三)六月一五日付の丹斤量定文を外包紙にもつ内包紙に記されているもので、歴名帳の年次もこの時期かもしくはさほどさかのぼらない頃のものと考えられる。
津積郷
つつみごう
「和名抄」にみえる。訓は東急本にも高山寺本にもないが、ツツミと読み、堤の意と思われる。大和国忍海郡の津積郷が葛城川の堤の東に推定されている例もあり、大和川(長瀬川)の堤に面する郷であろう。そうすると交通上の要地に位置することになるが、「延喜式」(兵部省)の諸国駅伝馬の条に河内国津積駅がみえることと矛盾しない。したがって郷域は、法善寺(現柏原市)を中心に東は恩智川、西は大和川(長瀬川・玉串川)に挟まれ、北は高安郡境、南は太平寺(現柏原市)の東部に至る狭長な地と推定される。おそらく大里・鳥坂両郷よりおくれて成立した郷であろう。当初は堅上郡が賀美・巨麻二郷、堅下郡が大里・鳥坂・鳥取の三郷よりなり、大県郡成立時は合計五郷、のち津積郷を分立して六郷となったとも考えられる。
津積郷
つつみごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。忍海郡東部を北流する葛城川に築かれた堤の東、現御所市大字北十三・南十三付近に比定される。堤に津積・十三の字をあてたものと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 