大県郡(読み)おおがたぐん

日本歴史地名大系 「大県郡」の解説

大県郡
おおがたぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「オホカタ」、東急本国郡部に「於保加多」、「拾芥抄」に「オホアカタ」とある。本来清音であったが、近代の郡名の訓は「オホガタ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。北は高安郡、西は若江・志紀両郡、南は安宿あすかべ郡に接し、東は大和国と境する。若江郡との境は玉串たまくし川、志紀郡との境は長瀬ながせ(旧大和川本流)である。

〔古代〕

「和名抄」によれば当郡は大里おおさと鳥坂とさか鳥取ととり津積つつみ巨麻こま賀美かみ六郷よりなる。現在、郡の大部分は柏原かしわら(その北部)に含まれ、一部が八尾やお(その南東部)にはいる。郡の西が旧大和川本流の長瀬川と分流玉串川に限られることは前述したが、南限は大和川、北限は現八尾神宮寺じんぐうじ恩智おんぢの境界線と考えられる。神宮寺は江戸時代は大県郡に属していたが、明治二二年(一八八九)に高安県に併合された。もとは神宮寺の地までが大県郡であろう。大県郡の史料上の初見は、「続日本紀」養老四年(七二〇)一一月二七日条に「河内国堅下・堅上二郡、更号大県郡」とある記事である。翌五年が六年ごとの戸籍作製の年なのでこの行政区画改訂が行われたのであろう。わずか六郷の地域に堅下かたしも堅上かたかみの二郡が存するのは行政上繁雑なので、その統合を図ったと解されるが、八世紀の初めには大きな郡を小郡に分割するのが一般的な傾向で、小郡の併合は他にほとんど例がない。おそらく大里・鳥坂・鳥取・津積の四郷が堅下郡、賀美・巨麻の二郷が堅上郡ではなかったかと推測するが、なぜそのような小郡が立てられたかが問題である。堅下・堅上二郡だけではなく、「和名抄」によれば、安宿郡が三郷錦部にしごり郡が二郷というように、とくに南河内の地域には小規模の郡が多い。それは、この地方が政治上重要な地域なので、早くから大和政権の支配が強く及び、大和政権が有力な豪族の成長を阻んで分割支配を実現していたことによるのではないかと思われる。

この地域の重要性は、大和と難波を結ぶ大動脈ともいうべき大和川に面し、かつ竜田たつた道がこの地を通っていることに象徴される。大和から難波に至る陸路としては、安宿郡を通過する竹内たけのうち峠越の道(丹比道)が重要であるが、都が大和盆地南部の飛鳥・藤原の地から盆地北部の平城に移ると、竹内峠越の道は迂回路となって衰え、竜田道が栄えた。この道は大和川沿いの大県郡の地を通り、大和川・石川の合流点付近を西に渡って大津道や渋河路に連絡する。「万葉集」巻九の一首にうたわれた河内大橋は、その渡河点に架された橋とするのが有力説である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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