河内国の自然環境は、山地や洪積台地を除くと時代とともに大きく変化している。約七千―四千年前まで、現在の河内の中心部の沖積平野のほとんどは、西方の
「古事記」は畿内の国名として倭(大和)・川内(河内)・山代(山背・山城)をあげるだけで、このことからすると、かつて河内は和泉はもとより摂津を含む広大な地域をさす名称であった可能性がある。和泉国は霊亀二年(七一六)に
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旧国名。現在の大阪府の西北・西南部を除いた大部分の地域にあたる。
畿内に属する大国(《延喜式》)。河内国の名称は北境にあたる淀川の〈川の内の方〉という意味に基づくと考えられている。記紀をみるとこの国名のほかに〈大河内(おおしこうち)〉〈凡河内(おおしこうち)〉の名がみえるが,大化前代に国造(くにのみやつこ)であった凡河内氏の勢力地であったことによるもので,この名称のほうが古く,そのときの地域は後の河内国よりも広範囲にわたり,和泉・摂津に及ぶものであったと推測される。大化改新時には畿内国の一部を占め,独立した一国ではなかったが,その後7世紀後半までに畿内を構成する一国としての河内国が成立した。
河内国の地域は東に生駒・金剛山地,北は淀川,南は和泉山脈に囲まれ,大部分は淀川と大和川の沖積地で,早くから開発が進められ良質の耕地が存在した地であった。また西に瀬戸内海を控えて水上交通の利点もあったため,大和朝廷は伝応神陵をはじめとし5世紀から6世紀にかけての巨大古墳の集中する古市古墳群の地域を全国支配や朝鮮半島進出の絶好の根拠地とし,積極的にこの地の支配にあたった。志紀,紺口(こんく),河内,三野,茅渟(ちぬ)などの県(あがた)や,茨田,依網(よさみ),桜井,茅渟山,難波などの屯倉(みやけ)の設置は,その現れといえる。大化改新以後においてもその重要性は変わらず,大和と摂津あるいは山城と摂津を結ぶ交通上の要地ともなった。こうした点が比較的狭小な面積でありながら,河内国を令制の大国とした理由であろう。
また,この地域は西文(かわちのふみ)氏などを中心とする渡来系氏族が多く居住し,仏教文化をはじめ文化的先進地域としての位置を占めていた。令制下では,管轄の郡として《延喜式》によると錦部(にしごり),石川,古市,安宿(やすかへ)/(あすかべ),高安,河内,讃良(さらら),茨田(うはらた)/(まんだ),大県(おおあがた),若江,志紀,交野(かたの),渋川,丹比(たじひ)の14郡を数える。このうち大県郡は720年(養老4)に堅上(かたのかみ)・堅下の2郡を併せ設置したものであり,また丹比郡は平安中期に南北2郡に分けられた。西南に隣接する和泉国は716年(霊亀2)に和泉監(いずみげん)という特別行政地域として河内から分置されたが,740年(天平12)廃されて河内国に併合,それは以後757年(天平宝字1)和泉国として分立するまで続いた。その後,769年(神護景雲3)道鏡政権下に由義(ゆげ)宮が若江郡に造営されたため,平城京に対し西京と称し国司を廃して河内職(しき)を置いたが,翌年道鏡の没落後これを廃し旧に復した。
国府は志紀郡に置かれ,その現在地は藤井寺市惣社,国府の地に比定されている。国分寺は安宿郡内の東条廃寺址に推定されている。式内社は枚岡神社をはじめ大社23座,小社90座がある。《延喜式》によれば楠葉,槻本,津積(つさか)の3駅が置かれ,駅馬各7疋が準備されている。またこの国の田数は《和名抄》には1万1338町4段160歩とみえ,《拾芥抄》には1万0977町とある。上述の県や屯倉の設置からうかがえるように,早くから耕地化された肥沃な水田が多く,宮内省管轄の官田のほか,中央貴族の位田,職田なども多く設定された。平安時代に入り律令土地制度が崩れはじめると,中央諸官司の経費にあてるための諸司田が多く設けられる一方,有力寺社や貴族の荘園も数多く設置されるようになり,平安中期には80を超える数を示す状態であった。
執筆者:亀田 隆之
鎌倉幕府は当初当国に守護を置かず,京都守護の北条時政が検断権を行使したが,国衙機構は国主源光輔が押さえており,武家勢力の浸透は弱かった。承久の乱後は相模の豪族三浦義村が守護に任ぜられ,守護代・守護使を置いて支配に当たった。なお幕初から小地頭を統括する惣地頭として大江公朝,北条時定,さらに石川谷に発展した河内源氏石川判官代の源義兼が任ぜられた。三浦氏は宝治合戦の結果幕府に滅ぼされるが,後任の守護はしばらく不明で,1280年(弘安3)に六波羅探題北方の北条久時が守護であった明徴があり(《新篇追加》),おそらく1333年(元弘3)の幕末まで北条氏一門が守護職を継承したと推定される。鎌倉末期の守護代として内藤某の名も知られる(《和田文書》)。また同時期の守護所は鋳物産地の丹南(たんなみ)に政庁が置かれていたと考えられている(《楠木合戦注文》)。
院政期の荘園整理令で打撃を受けた荘園は,観心寺領・石清水社領などを中心に,経営の拙劣さもあって平安末にはほとんど退転したが,鎌倉期には山門延暦寺領をはじめ他の畿内諸国より多く荘園が新しく立荘され,大きな変化をとげた。領主別ではやはり石清水八幡宮と山門関係が多い。産業面では,摂関家の渡領として重要な楠葉牧(現,枚方市北部)を中心に土器の生産が盛んで,現在全国各地の中世遺跡から楠葉の土器が出土している。ことに禁裏料所楠葉御薗で供御人(くごにん)の生産する土器皿は裏面に菊紋を押し,皇室に上納されるほか各地に流通し,民衆の間では〈河内鍋〉と呼ばれる土鍋が普及していた。土器生産が下火に向かう鎌倉後期は,楠葉内の石清水社散在神人(じにん)が活発にこうじの生産と販売に従事し,石清水境内麴座の特権はしだいに脅かされていく。河内南部の山間地,とくに天野近辺(現,河内長野市)では,鎌倉初期から良質の白炭を産し,普通の木炭も河内炭として普及した。また楠葉牧は馬のほか〈河内牛〉が駿牛として珍重され,京都の貴族間で有名であった。当国特産で最も重要なのは丹南鋳物で,平安後期から蔵人所を本所とする灯籠鉄器供御人が編成され,良質の鋳銅技術を誇った。丹南鋳物師(いもじ)は日常雑器のほか寺社の梵鐘や鰐口も多く鋳造し,彼らの銘のある梵鐘は,東は常陸から西は周防・伊予に及ぶ41例が知られている。
当国は両朝の主戦場となり,守護は戦争責任を問われてしばしば更迭された。室町幕府はまず1336年(延元1・建武3)足利氏一門の細川顕氏を守護(守護代秋山泰光)に任じたが,47年(正平2・貞和3)顕氏は藤井寺・天王寺の合戦で楠木正行に惨敗し,同年12月に守護は高師泰(こうのもろやす)に改替された(《台覧記幷諸堂仏体数量記》)。師泰も49年観応の擾乱(じようらん)で没落し,その後はしばらく足利直義党の畠山国清が在任,52年(正平7・文和1)には尊氏党で師泰の遺子高師秀が守護に就いた。ついで59年(正平14・延文4)畠山国清が守護に再任したが(守護代杉原周防入道),彼も61年(正平16・康安1)関東に下向し,その後任は明らかでない。69年(正平24・応安2)には南朝で摂・河・泉3国の国主楠木正儀(まさのり)が北朝・幕府に帰参し,将軍足利義満は彼を河内・和泉の守護に任ずる一方,南朝における由緒を認めて河内国主を兼帯させた(守護代兼眼代は河野辺駿河守)。室町幕府の守護制度上,このような事例では伊勢国司北畠氏が伊勢南部の半国守護を兼帯した事実があげられる。しかし正儀は82年(弘和2・永徳2)北朝に反して守護を罷免され,代わって畠山基国が入部し,以後戦国末期に至る畠山氏の河内分国化が始まる。
南北朝期の守護所は古市(現,羽曳野市)にあったが(《台覧記幷諸堂仏体数量記》),畠山氏入国当初の守護所は未詳で,のちの1460年(寛正1)に畠山政長の守護所が若江にあったことから推定すれば,若江守護所(現,東大阪市)は南北朝末期にさかのぼるとも考えられる。若江は77年(文明9)まで政長の守護所であったが,同年河内を占拠した西軍の畠山義就は政長を国外へ逃亡させ,新たに高屋城の築造に着手,翌々年に守護所を若江から高屋に移した。1538年(天文7)に畠山在氏が北半国守護として飯盛城(現,四条畷市)に入るまで,高屋は河内の中心地であった。畠山氏の領国支配機構は守護代の下に小守護代・郡代を置き,守護・守護代・守護奉行人らは在京していたから,分国における最高行政官は小守護代であった。戦国時代になると各郡に小郡代も置かれた(《灯心文庫所蔵寺町文書》)。守護代はほとんど遊佐(ゆざ)氏が世襲,1441-55年の間のみ西方国賢,戦国末には一時安見直政が守護代であった。
守護畠山氏は持国のとき家督紛争が起こって政長と義就が争い,これが応仁の乱の重要な一因になったが,これに限らず守護職を帯する人物と,現実に領国を支配する者とが別人であることが少なくなかった。荘園制の解体が進む中で,当国にも国人領主制の展開がみられた。水走(みずはや)氏は河内郡水走(現,東大阪市)を本貫とする土豪で,平安~室町時代を通じて生駒山麓にあり,大江御厨(みくりや)の執当の地位を利用して多数の下人労働力を投下し,深野池東岸を開発した。誉田(ほんだ)氏は応神陵墓地近辺(現,羽曳野市)の出で,南北朝末の畠山氏の河内入部直後に守護の有力被管となり,一族は在京して畠山氏の奉行人を務め,1455年(康正1)畠山義就が山城守護となるや,誉田祥栄は守護代に任ぜられている。ほかに中世の河内国人としては,六波羅探題・室町幕府の奉行人を出した門真氏,室町期に山城郡代となった馬伏氏(現,門真市下馬伏付近の出自),丹下氏,恩智氏(現,八尾市出自),甲斐荘(かいのしよう)氏らがいる。
室町期の荘園は,本所権力の膝下であるだけに他国に比し相対的には遅くまで存続したが,全般的には解体を免れえなかった。早く四条畷合戦のさい,大庭荘・下仁和寺荘(現,守口市)などは幕府軍の兵粮料所となって押領され,1400年(応永7)には北河内の石清水社領87町余のうち50町が隣荘の荘官により押領されている。なお応安の半済令により再興,安定化した荘園も若干はあるが,いずれも戦国期には退転を免れていない。
特産物は,丹南の鋳物が室町期には下野佐野の天明鋳物に市場を奪われつつあったのに比し,新たに木村(このむら)のゴマ油,若江の菅笠などの生産が発展した。また寺領の年貢米で醸造される金剛寺の清酒は,守護畠山氏により将軍家へも献上され,世に〈天野酒〉として京の柳酒,大和菩提山酒と並ぶ天下三銘酒に数えられるほどであった。河内南部ではみそ,コンニャクなども生産された。手工業生産の発達にうながされ,地方都市の発展も著しい。河内では一向宗の教線の伸張に伴って出口,枚方,招提(しよだい),久宝寺,富田林,長曾根,金田などの寺内町が形成された。久宝寺は近世の絵図から推定すると周囲に二重の濠と土居をめぐらし,6ヵ所の出入口には木戸門と番所が設けられていた。
守護畠山氏は内訌と分裂を繰り返しながら河内守護職をかろうじて継承してきたが,ついに1560年(永禄3)10月,飯盛・高屋両城とも三好長慶(ながよし)の大軍の攻囲にあって陥落し,河内は三好氏の直轄領国となり,守護畠山高政は堺に逃亡した。長慶は本城を摂津芥川から飯盛城に移し,高屋城には三好義賢を置いて河内一国を支配せしめ,飯盛城は織田信長入京まで数年間,畿内政治の中心地となった。
執筆者:今谷 明
1568年(永禄11)織田信長が入洛し摂津に出陣するに及んで,摂津・河内に勢力を張る三好三人衆(長慶の老臣)は四国に退却した。信長は河内の支配権を二分し,北半分を若江城の三好義継(長慶の子),南半分を高屋城の畠山高政に与えた。その後義継は信長と対立し,70年(元亀1)11月織田軍によって若江城は囲まれた。義継の臣池田丹後守教正ら若江三人衆が織田軍に内応して若江城は陥落し,河内北半分の支配権は信長から若江三人衆に与えられた。一方,畠山高政,畠山昭高(高政養子),遊佐長教,三好康長と城主が替わっていった高屋城も75年(天正3)信長の攻撃で陥落して破却され,このとき河内の諸城も破却された。信長は以後池田教正の守る若江城を,石山本願寺攻め,紀州攻めの拠点として活用した。81年教正は八尾城を築き若江城から移った。82年信長が本能寺の変で倒れ,翌年の賤ヶ岳合戦勝利で豊臣秀吉の支配権がうち立てられると,河内は秀吉の支配下におかれた。
近世河内の総石高は,1598年(慶長3)には24万3106石であったが,1645年(正保2)には26万4952石,1700年(元禄13)には27万6325石,1831年(天保2)には29万3786石と増加を続けた。1598年には,豊臣家の直轄領(蔵入地)は15万6535石で,河内の全石高の64.7%を占め,豊臣政権の直接的な地盤の一つであった。関ヶ原の戦(1600)によって豊臣秀頼は一大名に転落し,領地も摂津・河内・和泉3国内で65万石余と縮小されたが,1598年の3国の石高合計は73万9000石余で,秀頼の領地はほぼ9割近くに及んでいた。1615年(元和1)の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると,大坂には松平忠明が配置され,忠明の領地の半分5万石は河内の榎並庄,若江郡,八上郡の中に与えられた。河内の残り全域は小堀政一(遠州),北見五郎左衛門などの幕府国奉行が管轄した。19年松平忠明が大和郡山に転封となり,大坂に国奉行でもある大坂町奉行が置かれて摂津・河内両国はその管轄となり,以後この体制は明治維新まで変わらなかった。
延宝年間(1673-81)の河内の幕府領(代官支配地域)は約9万2000石(34.4%),私領(大名・旗本領)は約17万4500石(65.2%),寺社領は約1000石(0.4%)で,豊臣氏時代に比べ直轄領はほぼ半分に減り,私領が多くなっている。しかし私領の中には大坂城代,京都所司代や大坂町奉行など幕府役職への就任で与えられる加増地や替地が4万石あり,その多くは役職をはなれると後任者へ引き継がれることが多い特殊な領地であった。また旗本領は40家,11万1500石であり,この両者は準幕府領ともみなしうるもので合計15万石余となる。大名領は,摂津高槻城主永井家3万石のうち2万3600石を筆頭に12家6万3000石で,河内全体の23%と全体の4分の1にも達していない。しかも河内国内に本拠を置く大名は狭山北条家(はじめ7000石弱,のち1万石。1594年~廃藩置県),丹南高木家(1万石。1616年~廃藩置県)の2家2万石にすぎなかった。このように河内は江戸時代を通して幕府領,準幕府領が大きな比重を占め,裁判などは大坂町奉行が管轄するといった体制がとられ,一国もしくは半国近くを特定の大名が支配するといった大名領国には一度もならなかった。
河内は中世末期以来経済的な発展が著しく,その結果地域経済の中心地として小都市,在郷町が早くから生まれた。枚方(ひらかた),久宝寺,八尾,柏原(かしわら),国分,古市,大ヶ塚,富田林などが在郷町として知られ,久宝寺,八尾,大ヶ塚,富田林は中世以来の寺内町である。
河内の生産力を高める画期的な大工事,大和川の付替え工事は1704年(宝永1)に行われた。古大和川は柏原で石川と合流し,少し下流で長瀬川,玉串川に分流し,さらに玉串川は吉田川,菱江川に分流するといった状態で中河内を網の目のように走り,大坂城の北でまた一本になり,淀川と合流していた。この古大和川流域は降雨が少し続けば水があふれ,洪水もしばしば起こり,沿岸農民に多大の被害を与えていた。今米村(現,東大阪市内)の川中九兵衛・甚兵衛の親子2代50年に及ぶ大和川付替え要求運動の結果,幕府はついに石川の合流地点(現,柏原市築留)から西方へ大和川の流路を変更し堺の北に落とす計画を認めたのであった。新大和川は川幅100間,長さ3里半,6町に及び,総工事費7万1503両余が投ぜられ,また岡部美濃守ら5大名も手伝いに動員され,9ヵ月間で完成した。この結果,堤防・川床になってつぶれた土地は274町歩,石高3700石余,新しく開かれた新田は鴻池新田をはじめ48ヵ所に及び,1063町歩,石高1万0950石余であった。
古大和川の流域には〈半田(はんだ)〉という特有の耕地形態があった。湿田の中に土をかきあげてつくった畠をいい,半田では表作に綿,裏作に麦をつくり,低い方の湿田は排水不良のため稲の一毛作のみであった。古大和川流域は付替え後も,洪水の被害は除かれたが低地のため排水不良地で,やはり水損地域であった。また大和川は水量が少なく,夏は上流の大和盆地で用水に水をとられて,下流のこの地域には十分な水のこない旱損地域でもあった。付替え後はいっそう用水不足となり,水損・旱損対策として考え出された半田はさらに普及した。
河内は木綿生産地として早くから知られ,《毛吹草》(1638序)にも名産〈久宝寺木綿〉の名がある。河内木綿は糸太の厚地で染めも洗練されておらず,大坂の商家などでは丁稚(でつち)の仕着などの服地とされ,また京坂の綿服はほとんど河内木綿を用いるなど庶民に愛用された。綿作も摂津,和泉,尾張,三河と並ぶ全国有数の地域で,明治前期の実綿生産額は河内で709.4万斤(1876-82年平均)と全国第3位(1位は摂津で768.6万斤)であった。天保初年の河内の実綿生産は1877年の約2.3倍と推定されており,その盛行ぶりがおしはかられる。大和川の付替えは綿作をいっそう盛んにした。幕末~明治初年にかけて綿作は全国的に減少していき,河内でも新大和川以南の南河内一帯ではかなり減少していったが,中河内の半田のある地域ではなお高い綿作率が維持され,1887年に急速に衰退にむかった。これは半田という耕地形態が簡単には作物の転換を許さなかったためである。
1788年(天明8)河内郡,若江郡,志紀郡惣代らは連印して,大坂の特権的株仲間商人の不正肥料販売などの横暴に対する処置を求めて大坂町奉行所へ訴えを起こした。国訴のはじまりであった。摂津,河内,和泉の村々が連合して,その力を背景に行った合法的な訴訟闘争を国訴と呼ぶが,その要求は肥料高値反対,綿・ナタネ・油などの自由販売などで,幕府に保護された大坂の特権的株仲間の流通支配に対する商品作物生産農民,在郷商人たちのたたかいであった。国訴は天明以後幕末までに30回をかぞえるが,とくに1823-24年(文政6-7)の国訴は摂・河・泉3国全村の8割にあたる1307ヵ村が連合して,大坂の三所綿問屋による実綿の独占反対,大坂中心の幕府の油政策改正などを嘆願する最大のものであった。
近代を迎えた河内は,1868年(明治1)5月大阪府管轄となり,さらに翌69年1月河内16郡は大阪府から分離され,新設された河内県の管轄となった。同年8月河内県は廃止され,河内は堺県の管轄に入った。さらに81年2月堺県が廃止され,河内は大阪府管轄にもどったが,このときの大阪府の範囲は摂・河・泉と大和の4ヵ国であった。
執筆者:内田 九州男
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大阪府南東部の旧国名。五畿内(きない)の一国で、略して河州(かしゅう)。東は山城(やましろ)・大和(やまと)、南は紀伊(きい)、西は摂津(せっつ)・和泉(いずみ)の諸国に接する。古くは摂津の一部と和泉全域をも含み、大河内(おおしこうち)、凡河内(おおしこうち)などとよばれた。早くから皇室の直轄地として、三野(みの)、志紀(しき)、紺口(こんく)、大鳥、茅渟(ちぬ)などの県(あがた)が設けられたが、大化改新後、河内国、摂津国(津国)に分かれ、701年(大宝1)国を4等級に分けたとき、大国に属した。郡の数は、初め、錦部(にしこり)、石川、古市、安宿部(やすかへ)、堅下(かたしも)、堅上、高安、河内、讃良(さらら)、茨田(まむた)、交野(かたの)、若江、渋川、志紀、丹比(たちひ)、大鳥、和泉、日根の18郡。716年(霊亀2)3月このうち和泉、日根2郡を割いて茅渟(珍努)宮(ちぬのみや)に供し、4月さらに大鳥、和泉、日根3郡が、和泉監(げん)として分離されたため15郡となった。ついで720年(養老4)11月堅上、堅下の2郡を合併して大県(おおあがた)郡とし14郡となり、鎌倉時代に丹比郡を丹南(たんなん)、丹北(たんほく)の2郡に、丹北郡をさらに丹北、八上(やかみ)両郡に分割したため、以後16郡となった。和泉監は740年(天平12)8月廃止、河内国に復したが、757年(天平宝字1)5月ふたたび和泉国として分立した。ついで769年(神護景雲3)10月、由義宮(ゆげのみや)(八尾(やお)市)を西の京とし河内国を河内職(しき)と改めたが、翌770年(宝亀1)8月廃止して河内国が復旧した。国府はいまの藤井寺市、国分寺は柏原(かしわら)市にあった。
平安時代には多くの荘園(しょうえん)がおこり、また源頼信(よりのぶ)、頼義(よりよし)、義家(よしいえ)と続く河内源氏の本拠も置かれたが、鎌倉時代には国司の権が衰え、建武(けんむ)新政のとき楠木正成(くすのきまさしげ)が守護となり、南北朝時代には千早(ちはや)城、赤坂(あかさか)城は南朝方の根拠地となった。北朝方の細川、高(こう)氏に次いで畠山(はたけやま)氏が室町時代にかけて守護となったが、戦国時代には群雄争奪の舞台となり、三好長慶(みよしながよし)、織田信長を経て豊臣(とよとみ)氏の領国となる。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後は、江戸幕府直轄地および丹南藩(高木氏1万石)、狭山(さやま)藩(北条氏1万石)のほか、大名飛地(とびち)領、旗本領、宮堂上(とうしょう)家領、社寺領が交錯し、明治維新を迎えた。1869年(明治2)河内県および丹南、狭山以下18藩、71年堺(さかい)、河内、五条、丹南など16県となり、同年堺県に統合。81年大阪府に編入された。現在は、守口(もりぐち)、枚方(ひらかた)、八尾、富田林(とんだばやし)、寝屋川(ねやがわ)、河内長野、松原、大東(だいとう)、柏原、羽曳野(はびきの)、門真(かどま)、藤井寺、東大阪、四條畷(しじょうなわて)、交野(かたの)の各市、大阪・堺両市の一部、南河内郡に分かれる。
古代には渡来人により高度の文化がもたらされ、応神(おうじん)陵(誉田山(こんだやま)古墳)を中心とする古市(ふるいち)古墳群のほか、多数の古墳群が散在し、難波(なにわ)と大和を結ぶ要衝として繁栄。中世には南朝の皇居も置かれた。近世には大坂の文化が波及し、河内木綿(もめん)の産地であった。
[藤本 篤]
『藤本篤著『大阪府の歴史』(1969・山川出版社)』▽『『大阪府史』全7巻・別巻1(1978~95・大阪府)』▽『太田亮著『河内』(1925・磯部甲陽堂)』
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畿内の国。現在の大阪府北東部から南東部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では錦部(にしごり)・石川・古市・安宿(あすかべ)・志紀・丹比(たじひ)・大県(おおがた)・高安・河内・若江・渋川・讃良(さらら)・茨田(まんだ)・交野(かたの)の14郡からなる。「古事記」「日本書紀」に大化前代から国名がみえ,716~740年(霊亀2~天平12)の和泉監(いずみのげん)の分置後,和泉国が分立した。国府は志紀郡(現,藤井寺市)におかれ,国分寺・国分尼寺は安宿郡(現,柏原市)におかれたと推定される。一宮は枚岡(ひらおか)神社(現,東大阪市)。「和名抄」所載田数は1万1338町余。「和名抄」には調として銭のほか雑器を定める。早くから開発が進められ,渡来系氏族も多数居住し,大和盆地から西へ通じる交通の要衝として古代から重要な役割をはたした。平安中期以降に丹比郡から丹北・丹南,さらに中世に八上(やかみ)の各郡が分立。鎌倉時代には三浦氏・北条氏が守護となり,末期には楠木正成の根拠地であった。室町時代には畠山氏の領国となる。近世には丹南・狭山の2小藩のほかは国外諸藩領や寺院領となる。1869年(明治2)藩領以外の地は河内県とされ,71年すべての地が堺県となる。81年堺県は大阪府に編入された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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