尾張国(読み)オワリノクニ

デジタル大辞泉 「尾張国」の意味・読み・例文・類語

おわり‐の‐くに〔をはり‐〕【尾張国】

尾張

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日本歴史地名大系 「尾張国」の解説

尾張国
おわりのくに

東は美濃・三河、西は美濃・伊勢、南は伊勢湾、北は美濃国に接し、東は境川、西は木曾川が境界となる。国の東半分は北の犬山付近から南の知多半島の南端に至るまで丘陵が起伏し、西半分は肥沃な濃尾平野が広がる。国名の由来はわからないが、「尾張志」は山田郡小針おばり村に「延喜式」記載の尾張神社があり、ここを尾張氏の本拠と考え、この郷名が国名になったという。国造としてこの地方に勢力を振るった尾張氏の名をとって国名にしたとも考えられる。国の田数は、平安後期の「掌中歴」に尾張は上田一万一千九四〇町とあり、近世の「寛文覚書」では五万一千三八四町余、明治初年の藩政当時の総反別で五万五千八五町余、人口は武家を除いて寛文一一年(一六七一)に三七万五千九一八人、宝暦一二年(一七六二)に四八万五千一九六人、弘化三年(一八四六)に六五万三千六七八人、明治六年(一八七三)には華・士族含めて七三万一千九七四人である。

古代

〔律令体制と荘園の成立〕

大化の改新で律令体制が発足したが、地方ではなお諸豪族の勢力が強く、壬申の乱に大海人皇子が勝利を収めることができたのは、とくに尾張の諸豪族の援助によるところが大きい。この時には豪族尾張氏からは尾張連馬身と尾張宿禰大隅らが参加し、とくに尾張国守小子部連さひちの活躍は目覚ましいものがあった。しかし天武・持統両朝が成立して律令体制が強化されると諸豪族の勢力は後退した。

国造尾張氏が支配していた尾張地方は、律令体制の成立でそのまま尾張国とよばれたが、中央から派遣された国司が統治し、尾張氏一族は地方の郡司に任命された。東海道に属した尾張国は、「延喜式」によると上国に位置づけられ、国内は中島・海部あま・葉栗・丹羽・春部かすがべ(春日部)・山田・愛智・智多の八郡に分れ、のち平安末に海部郡はさらに海東・海西の二郡に分れ、戦国頃に山田郡は廃されて春日井・愛知の二郡に分属する。「和名抄」によると、尾張八郡は上郡二・中郡三・下郡三となり、大領・少領・主政などの当時の郡司の定員は大郡五人、上・中郡各四人、下郡三人となっているので、当初は計二九人であった。また班田収授の実施をあらわす条里制の跡は、中島・海部・春日井・丹羽の各郡で多くみられる。尾張は都に近いため庸には米・塩が指定され、調では最初は銭、のち絹・糸などが運ばれ、さらに錦・綾・羅などの高級織物も送られている。平城宮出土木簡によると、知多郡からは調として塩が送られた。

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改訂新版 世界大百科事典 「尾張国」の意味・わかりやすい解説

尾張国 (おわりのくに)

旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。

東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。尾張国第一の規模をもつ断夫山古墳は,ヤマトタケルと結ばれたミヤズヒメの墓と伝えられるが,もとより史実ではありえない。律令体制下では,中島,海部(あま),葉栗,丹羽(にわ),春部(かすがべ),山田,愛智,智多の8郡を管する。国府および国分寺・国分尼寺は中島郡におかれた(現,稲沢市)。距離的には近国とされているが,《延喜式》の記す調運搬の所要日数は,平安京まで往路7日,復路4日である。駅家は,伊勢国の榎撫(えなつ)駅につづいて,馬津・新溝(にいみぞ)・両村(ふたむら)の3駅が設けられ,三河国の鳥捕(ととり)駅がこれにつながる。《掌中歴》には,尾張国の田積1万1940町とあるが,8世紀の中ごろには木曾川の大洪水による多大の被害があったことが記録されている。木曾川の河道問題は,美濃国の利害とも密接に関連していたから,両者の対立も時には深刻であった。9世紀の中ごろには,美濃国の郡司たちが,700人の武装農民をひきいて尾張側の工事現場を襲撃し,尾張側に死傷者が出たという事件も起こっている。尾張国においては,住民が国司の悪政を訴えて出るという例が多くみられた。とりわけ,10世紀の末葉における藤原元命の場合には,郡司や百姓による31ヵ条にわたる国司弾劾の内容が,《尾張国郡司百姓等解文》として今日に伝えられていて,国司罷免というその結果とともに上訴事件の代表例として知られている。数多い同類の事件の一例であろうが,地方行政のポストを単なる利権の対象とみる当時の中央貴族たちの実態を示すものといえよう。尾張国はまた,陶器生産地でもあった。8世紀後半ごろ,前代の須恵器生産をひきついで,東部から北東部にかけての丘陵地帯において灰釉(かいゆう)陶器の生産がはじまり,10世紀にはそれが盛期に達する(猿投窯(さなげよう))。他方,知多半島では,12世紀ごろより無釉陶器の生産が急展開する。
執筆者:

院政下の尾張においては,源平二氏の勢力が激しく対立していたが,保元・平治の乱を経ると平頼盛をはじめ平氏一門の国守が続き,在庁官人ら在地勢力もほぼこれに服し,平氏勢が優勢を占めた。この時期御器所保(ごきそほ)など多くの平氏領が成立した。一方後白河院も尾張を分国とし,熱田大宮司一族をはじめ在地勢力の掌握と皇室領の増加をはかっている。1180年(治承4)の源頼朝の挙兵には山田重弘・河辺重直ら清和源氏重宗流,頼朝の外戚熱田大宮司家一族らが呼応して蜂起した。これに対し平氏勢につくものは在庁官人以下その数も多く,墨俣(すのまた)川の戦では源氏勢を圧倒したが,平氏の没落後は反平氏勢が勢いを挽回した。84年(元暦1)頼朝は在庁大屋安資に国内を鎮める任務を与えたが,守護・地頭の設置が認められると,武蔵武士小野成綱を尾張守護とした。尾張は頼朝挙兵当時は,その支配領域-東国の西限に組み入れられたが,86年(文治2)地頭設置をめぐる朝廷との交渉の結果,平家没官領以外の所領での地頭停止を約した37ヵ国の中に含まれ,東国からはずされた。以後一時的な変動はあったが尾張は西国の東限とされた。東西勢力の接点に位置する尾張では,承久の乱には守護をはじめ多くの御家人が宮方に参じた。乱後彼らの所領は収公され,再度国内の勢力は大きく変じた。西門真荘に二階堂氏,海東荘に小山氏,長岡荘に佐々木氏のごとく,新たに地頭として入部した者は幕府重臣ら関東の御家人が中核であり,乱を機に鎌倉政権の支配は尾張に定着する。守護職は小野氏の同族中条氏にうけつがれたが,14世紀初頭以降北条氏一門である名越宗教がこれに代わった。北条氏一門の進出は尾張においても顕著で,一門領は富田荘,篠木荘,枳豆志(きずし)荘,御器所保など全域にわたっている。

 北条氏滅亡後成立した足利政権は1353年(正平8・文和2)尾張守護に美濃守護土岐頼康を任じた。頼康の在任期間は以後36ヵ年に及び美濃と合わせた領国形成を強力に進めたが,これを牽制せんとする幕府と直接結び,守護支配に服さぬ国人もいた。明徳の乱(1391)による土岐氏の失脚後,守護職には畠山基国,今川仲秋,同法珍らが任ぜられたがいずれも短期間で交代し,14世紀末の約10年間,国内には混乱が続いた。この時期,おそくも1391年(元中8・明徳2)には,知多(智多)郡が尾張守護の管轄からはずされ三河守護一色詮範の下におかれた。また海東郡も同じころ分割され,山名某,結城満藤を経て94年(応永1)には同人の管轄下に入っている。両郡分割支配は15世紀以降も続き,一色氏が両郡守護を兼ねた。1400年ころ,斯波義重が守護に着任,以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護斯波氏の領国支配下におかれる。越前時代からの被官甲斐・織田・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。守護代は当初甲斐祐徳であったが,まもなく織田常松がこれに代わった。在国又代は織田常竹であり,以後守護代・又代ともに織田氏一族が独占した。斯波氏は国衙機構を掌握,応仁の乱前後には,荘公を問わず国内全域の公田を対象とする守護独自の段銭を賦課していた。この時期,守護所は鎌倉街道沿いの下津(おりづ)におかれていた。下津城址と推定される地域から,近年多くの中世陶磁,漆製品,木簡などが発掘されている。

 織田氏一族は,早くより実質的な領域支配者としての性格を備え,坂井氏のように斯波氏家臣として同列にあった者までも,自己の被官として組織化していった。1452年(享徳1)の斯波義健の死後,家督をめぐる義敏・義廉の争いは応仁の乱の一因となり,織田氏をはじめ在地勢力の分裂をひきおこした。75年(文明7)ころには越前・遠江を朝倉・今川の両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が尾張に下り,織田敏広が守護代となった。しかし78年幕府は斯波義敏の子義良を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。敏定は尾張に入部して清須に拠り,敏広方は美濃の斎藤妙椿の援をうけてこれに対決した。このとき下津城は焼失した。翌年1月,敏定が2郡分を獲得することで和議が成立,義良を擁する敏定は清須にあって尾張南東部を,敏広は岩倉に拠って尾張北部をおさえて対立し,尾張は分裂支配に入った。やがて清須方が優位を占めるようになり,一方この過程において斯波氏の権威も形骸化した。実権は清須守護代家からその下にある三奉行へ,さらにその中で勝幡(しよばた)に拠点をもつ織田信定-信秀へと移った。信秀は津島・熱田などの商業中心地を押さえ,三河・美濃に転戦して領域を拡大した。

 鎌倉・室町期に存続した荘園には,皇室領として稲木荘(丹羽郡),篠木荘,柏井荘(春部郡),山田荘,狩津荘(山田郡),上門真荘,黒田荘(葉栗郡),熱田社領(愛智郡)など,摂関家領として小弓(おゆみ)荘,大県社領(丹羽郡),枳豆志荘(知多郡),長岡荘(中島郡),富田荘(海東郡)など,中央有力寺院領として安食(あじき)荘(春部郡,醍醐寺領),鳴海荘(愛智郡,同寺領),大成荘(海西郡,東寺領)など,その他久我(こが)家領海東荘(海東郡),神祇伯家領松枝荘(葉栗郡),万里小路(までのこうじ)家領六師荘(春部郡)などがある。また伊勢神宮領である御厨(みくりや)・御園は伊勢に次いで多く,南北朝期には58ヵ所を数えた。一方国衙領は国衙所在地をとりまく中島郡,丹羽郡に集中的に分布し,南北朝以降は醍醐寺三宝院門跡領となって存続した。これらの荘園・公領は,15世紀に入ると実質を失い,わずかな例外を除いて,応仁の乱を境に崩壊していった。

 東西を結ぶ交通は,鎌倉幕府成立後盛んとなり,尾張に与える影響も大きかった。主な交通路である鎌倉街道は,三河より鳴海・熱田・古渡・萱津・下津・黒田・玉井を経て美濃墨俣へとつづく。萱津は伊勢経由路との合流点でもあり,市が立つにぎわいをみせ,熱田は熱田社の門前町と海路への宿の二つの要素を備えて発展した。海上交通では,富田荘などの年貢輸送が早くより海路を使っており,伊勢大湊を東西の連絡港とする廻船も時代をおって盛んとなった。熱田大宮司一族は宮(熱田)・幡豆ヶ崎の2要地点を押さえ,一色氏は廻船公事,船手支配に手を伸ばしている。戦国期知多半島に割拠した水野・佐治氏らは海賊衆を統制下におき,海路を支配した。

 鎌倉新仏教は尾張においても急速に定着し,天台・真言より改宗した寺院も多い。一向宗は海東・海西2郡を中心に早く広まり,中世の開基と伝える寺院・道場は130ヵ所以上を数える。時宗,日蓮宗は萱津・熱田など街道宿場を拠点に普及した。禅宗は在地武士層の帰依を受け,臨済は中島郡を中心として北部で,曹洞は知多・葉栗・丹羽・愛知諸郡で盛んとなった。

 産業面では,中世における最大の窯業地の中心が尾張であった。瀬戸では美濃とともに当時唯一の施釉陶器の産地として宗教用具や高級日用具を,常滑(とこなめ)では無釉の日用具を産した。現在瀬戸では500以上,常滑では1300以上の中世窯跡が確認されており,その製品は全国的に市場をもっていたことが,各地の発掘調査から知られている。
執筆者:

織田信長は父信秀存生中の1549年(天文18)重要拠点の熱田8ヵ村に禁制を下した。信長時代の開幕である。父の死後,清須城の守護代家をはじめ海東郡内の織田一族や鳴海(なるみ)城主山口教継の攻撃,反逆があったが,信長はこれを取り鎮め,55年(弘治1)叔父信光と謀って守護代織田信友を殺し清須城を奪って那古野城から移った。59年(永禄2)織田信安の岩倉城を攻略,ほぼ尾張一円を勢力下におき,翌年今川義元の上洛軍を桶狭間の戦で破って武名をあげた。62年に犬山城の織田信清が美濃の斎藤氏と結んで反逆したので,翌年小牧山に要害を構え犬山勢に対した。67年斎藤氏の美濃井ノ口城を攻略しここに移って岐阜と改名。尾張長島(三重県桑名市,旧長島町)を中心とした河内(かわうち)と呼ぶ海西郡南部の一向一揆の頑強な抵抗も74年(天正2)信長は陸・海・川から総攻撃を加え全滅させた。この年信長は長男信忠に尾張の諸商人・職人・社寺等の統制権を与え,翌年知行安堵・宛行権等全面的に支配権を与えた。82年本能寺の変後,尾張は次男信雄の手に帰した。84年信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉との間で小牧・長久手の戦があり,講和後も尾張内に秀吉の占領地区は残り,86年の木曾川大洪水による河道変更で葉栗・中島・海西3郡のうち木曾川を隔てて美濃側の地は美濃国に編入。美濃国羽栗郡,中島郡,海西郡の成立である。90年小田原陣後,秀吉は信雄を下野国那須に追放。関東への備えとして甥の羽柴(豊臣)秀次を清須城主にし,一柳直盛を黒田城(一宮市,旧木曾川町)に入れ3万5000石を与え,秀吉の直轄領もおいた。秀次は関白で不在であり,実父三好吉房に犬山城10万石を与え清須城におらせて岡崎城主田中吉政とともに国政をゆだねた。秀次の治世中,92年(文禄1)総検地,翌年再検地,木曾川堤の構築および荒地開墾がおこなわれた。93年の事業はいずれも秀吉の指図により,検地高57万1737石といわれる。95年秀次死後,福島正則が清須城主24万石に,石川貞清が犬山城主1万2000石に封ぜられた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,家康は正則を安芸国広島に,直盛を伊勢神戸(かんべ)に転封。西軍に属した貞清を除封。家康の四男松平忠吉が清須城主52万石に封ぜられ尾張の大部分を領し,犬山城には忠吉の重臣小笠原吉次が入り1万石を領した。家康の生母の甥水野分長が故地の知多郡緒河城(東浦町)9820石に封ぜられたが,5年後に三河新城(しんしろ)に移され,忠吉はほぼ尾張一国を領した。07年忠吉は病死し嗣子がなく絶家。家康の九男徳川義直が甲斐府中城主から清須城主となり尾張一円を領したが,幼少のため従来どおり駿府の家康の手もとにとどまり,吉次を常陸笠間に移し義直の重臣平岩親吉を入れ9万3000石を領し代わって国政を執らせた。翌年検地実施,高47万2344石と定まる。11年親吉の死後,成瀬正成に犬山城を与え竹腰正信とともに執政として藩政に当たらせた。形式的な領主は義直であるが,実質は家康の直轄国である。

 尾張は江戸幕府にとって西方に対する前線基地である。清須は河川はんらんのおそれがあり,まだ大坂城には豊臣秀頼がおり,堅固な城を築く必要があった。09年に名古屋築城計画が決定,翌年着工,14年にほぼ完成。3ヵ月後に大坂冬の陣がはじまった。12年寺社地,武家屋敷地,町人宅地の地割りと碁盤割りの町割りができ,清須からの移転がおこなわれ一挙に人口数万の城下町が誕生した。16年(元和2)家康の死去によって義直が入封した。以後,名古屋は美濃側での加増で禄高61万9500石と木曾山を与えられた尾張藩16代の城下町として栄えた。54年(承応3)の町家人口5万4932人。

 名古屋南部の熱田は中世以来の門前町で東海道宮宿として栄え,海上七里渡で伊勢桑名宿に対した。海上旅行になれぬ者のため宮宿から脇往還佐屋路4宿が分かれ川下りで桑名に達した。中山道と東海道を結ぶ美濃路も宮宿から名古屋を通り起(おこし)宿で木曾川を越え美濃墨俣宿に至り垂井宿で中山道と結んだ。吉例街道ととなえ大通行の将軍上洛や朝鮮通信使,琉球使節の通行をはじめ13藩の参勤交代に利用された。幕府管轄外には名古屋から中山道を結ぶ善光寺街道,木曾街道があり,信州への物資運搬路として飯田街道がある。伊勢湾を利用して物資の輸送も盛んであった。知多半島の大野(常滑市),野間(美浜町),内海,師崎(南知多町),半田,亀崎(半田市)は廻船の根拠地として栄え,年貢米,材木,酒,木綿,陶器等を江戸・大坂に運んだ。

 尾張平野内の木曾川分流支川を締め切って本流一本に固定しはんらんを防止する大築堤工事が1610年に完成。この間に木曾川の分流を利用して宮田用水が作られ,同じく木曾川から取水する木津(こつつ)用水が48年(慶安1)から,入鹿池を築造して入鹿用水が33年(寛永10)に作られて平野内の用水路はほぼ完成。17世紀前半に安定した大水田地帯ができあがった。さらに海岸干拓新田開発も進められ17世紀前半までの新田高は8万5000余石に達し,以後19世紀半ばまでに3万7000余石の増加がみられる。米産に努力がはらわれたことは1737年(元文2)調査の稲品種が早稲77,中稲109,晩稲154の多数に及んでいることで首肯できる。1614年開設の下小田井(清須市,旧西枇杷島町)の日市は名古屋城下への青物供給市場であり,近郊農村の商品蔬菜栽培を盛んにし尾張大根切干しは江戸・大坂にも出荷した。代表的な産業は畑作中心の尾西地方の綿作の普及と縞木綿(尾西織物)の生産である。繰綿は商人たちが買い集めて一宮や岩倉の市に出し,ここから北陸や信州に送られ地元でも綛糸(かせいと)にひかれ,さらに名古屋や知多方面へ運ばれた。他方,これを背景として木曾川沿いの村々で西陣から技術を導入して桟留(さんとめ)縞が作られ,後に生産の中心が一宮や起方面に移り,やがて絹糸を混ぜた結城縞の生産が主流を占めた。織元は自分の仕事場に10台前後の織機をおき,女子奉公人を集めて生産するようになり,製品は江戸や大坂にも出荷された。知多半島では農耕条件に恵まれず,伊勢から晒(さらし)技術を導入して農家婦女子による白木綿(知多木綿)の生産が隆盛をきわめ,仲買たちによって買継問屋に集められ,江戸の大伝馬町白子両組木綿問屋に船で送られた。江戸への移送量は天保初年に20万反,1847年(弘化4)には48万反余に達した。1842年(天保13)藩は国産会所を設置し独占移出を計画したが,反対が高まり53年(嘉永6)に廃止した。瀬戸の窯業は1792年(寛政4)には年産2万両程度に衰退したが,肥前から磁器の技術を採り入れ藩も積極的に奨励した結果,瀬戸,赤津,下品野(瀬戸市)を中心に隆盛をとりもどし,1802年(享和2)藩は〈三ヶ村窯方御蔵会所〉を設け名古屋の問屋と地元の窯屋を蔵元にし,製品検査をし品質保持につとめ江戸・大坂・京都の取扱い商人を〈尾州瀬戸物支配人〉として一手販売にあたらせ販路を確保した。値段の10%が蔵物益金として藩に上納。

 藩祖義直は家康から多数の書籍を譲られ,自身も《類聚日本紀》174巻を編纂し好学の藩風をつくり,尾張独自の考証学風を生み出した。河村秀根の《書紀集解》30巻や岡田新川らによる《群書治要》の校刊と《孝経鄭氏解》の刊行,鈴木朖の《言語四種論》,さらに本居宣長の《古事記伝》の名古屋出版等によって学問的風潮は庶民の間にも広まった。城下で松尾芭蕉を中心に門人らによって正風開眼がなされ,俳諧の結社は農村にまで及んだ。芸能方面は7代藩主宗春の城下町発展策によって歌舞伎,浄瑠璃,舞踊,箏曲等が盛んになり農村にまでこの風潮が広まった。

 1868年(明治1)名古屋藩内の成瀬・竹腰両氏の所領が独立。新たに尾張国内に犬山藩が生まれた。71年の廃藩置県で尾張は名古屋・犬山の2県となり,同年11月犬山県は名古屋県に合併。72年1月知多郡は額田(ぬかた)県(三河)に移管,4月名古屋県を愛知県に改称,11月額田県を廃して愛知県に合併。現在の愛知県が成立した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾張国」の意味・わかりやすい解説

尾張国
おわりのくに

東海道の一国。現在の愛知県西半部にあたる。東は三河国、北は美濃(みの)国、西は伊勢(いせ)国に接し、南は伊勢湾に臨む。古くは尾張国と吾湯市県(あゆちのあがた)が置かれたが、大化改新ののち国・県が廃され新たに尾張国が設置された。中島(なかしま)、海部(あま)、葉栗(はくり)、丹羽(にわ)、春部(かすかべ)(のち春日井(かすがい))、山田、愛智(あいち)、智多(ちた)の8郡が置かれ、平安時代末ごろ海部郡は海東(かいとう)、海西(かいさい)の2郡に分かれた。山田郡は戦国時代ごろ廃されて春日井、愛智の2郡に分属された。さらに1880年(明治13)春日井郡は東・西春日井の2郡に分かれ、その後、海東、海西郡は合併して海部郡となった。面積のほぼ6割を尾張平野(濃尾(のうび)平野の南半部)が占め、農業が発達し、またわが国のほぼ中央に位置する地理的条件を備え、東西交通の要地として古くから栄えた。国府(こくふ)、国分寺(こくぶんじ)は現在の稲沢(いなざわ)市に置かれた。肥沃(ひよく)な地で、早くから伊勢神宮、熱田(あつた)社などの寺社や権門勢家の荘園(しょうえん)が多く置かれた。おもなものとしては皇室領の篠木(しのき)荘・稲木(いなき)荘・味岡(あじおか)荘・上門真(かみかどま)荘・黒田荘などや、摂関家の玉江(たまえ)荘(勧学院領)・小弓(おゆみ)荘・長岡荘(近衛(このえ)家領)、英比(あぐひ)荘・杜(もり)荘(九条家領)など、また寺社領として大成(おおなり)荘(東寺領)、鳴海(なるみ)荘・安食(あじき)荘(醍醐寺(だいごじ)領)、高畠(たかばた)荘(賀茂(かも)社領)、海部荘・愛智荘・春部荘・中島荘・丹羽荘・葉栗荘・山田荘(東大寺領)などがあった。

 鎌倉時代になると守護として小野成綱が任ぜられるが、それ以後中条(なかじょう)氏となり一時名越(なごし)氏にかわるが、南北朝時代ふたたび中条氏となり、やがて高師泰(こうのもろやす)が継ぐ。室町時代になると斯波(しば)氏が任ぜられ、下津(おりつ)を守護所とし、初め甲斐(かい)氏を、その後織田(おだ)氏を守護代とした。応仁(おうにん)の乱(1467~77)により斯波氏の勢力が衰退すると、織田氏が勢力を伸張させ、斯波氏にかわって実権を握った。勝幡(しょばた)の信秀(のぶひで)は他の織田氏を排斥し、尾張半国を支配するに至り、その子信長(のぶなが)は1559年(永禄2)岩倉城を攻略し尾張一国を支配下に置いた。翌年桶狭間(おけはざま)で駿河(するが)の今川義元(よしもと)を破り、67年には美濃の斎藤氏を下して岐阜城に移った。信長の統一事業に伴い尾張国は子信忠(のぶただ)の領国となる。82年(天正10)本能寺の変により信雄(のぶかつ)の領国となるが、90年の小田原征伐後、豊臣(とよとみ)秀吉は信雄を下野(しもつけ)国へ追放し、甥(おい)秀次(ひでつぐ)を封じた。秀次の死後福島正則(まさのり)が入封したが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康により正則は安芸(あき)国に転封させられ、家康の四男忠吉(ただよし)が入封した。忠吉が病死のあと九男義直(よしなお)が入封し、名古屋城を築いて清洲(きよす)より移転するとともに、成瀬正成(なるせまさなり)が藩家老として犬山城に入った。これ以後名古屋は尾張徳川家62万石の城下町として栄え、「尾張名古屋は城でもつ」とよばれるほどであった。1871年(明治4)廃藩置県により名古屋・犬山の2県となり、名古屋県を経て愛知県と改称、72年には額田(ぬかた)県(三河国)を合併して現在に至る。

 産業としては陶器製作が古くから行われている。瀬戸(せと)、知多(ちた)を中心に、平安時代には多くの陶器を生産しており、現在でも瀬戸焼、常滑(とこなめ)焼として名が知られている。また近世以降、綿、藍(あい)、菜種(なたね)など商品作物が栽培され、これを原料とする綿織物、染色、絞油(しぼりあぶら)などの加工業も発達した。とくに木綿は、一宮(いちのみや)を中心とする尾西地方の縞(しま)木綿と、成岩(ならわ)・半田を中心とする知多半島の白木綿、晒(さらし)木綿が有名である。染色では木綿絞り染めとして有松(ありまつ)絞りが名高い。このほか、半田地方を中心とする酢、みそ、酒、しょうゆの醸造業が知られる。一方、商業も盛んで、名古屋を中心に熱田魚市場、枇杷島(びわじま)青物市場は有名である。一宮、犬山、岩倉、小牧、津島などでは早くから六斎市(ろくさいいち)が開かれ、地域商業の中心であった。現在名古屋を中心に近代工業も盛んで、四大工業地帯の一つに数えられている。

[橋詰 茂]

『名古屋藩編・刊『張州府志』(1913~16)』『名古屋藩編・刊『尾張志』(1891~93)』『内藤東甫著『張州雑誌』(1975~76・愛知県郷土資料刊行会)』『『愛知県史』(1935~40・愛知県)』『『名古屋市史』(1915~34・名古屋市)』『塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』(1970・山川出版社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「尾張国」の解説

おわりのくに【尾張国】

現在の愛知県西半部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の稲沢市におかれていた。肥沃(ひよく)な濃尾平野に位置し、平安時代には皇室や権門(けんもん)寺社の荘園(しょうえん)が多かった。この時代から陶器製作が盛んで、今も瀬戸焼(せとやき)、常滑焼(とこなめやき)として知られる。鎌倉時代守護は小野氏、中条(ちゅうじょう)氏、名越(なごえ)氏など、南北朝時代から室町時代には中条氏、高(こう)氏、土岐(とき)氏畠山(はたけやま)氏斯波(しば)氏などだった。室町時代末期から斯波氏の守護代の織田(おだ)氏が勢力を伸長、織田信長(のぶなが)が尾張を統一して全国平定の一歩をしるした。関ヶ原の戦いののち、徳川家康(とくがわいえやす)の4男忠吉(ただよし)が入封(にゅうほう)、忠吉が病死したあとは9男義直(よしなお)が入封し名古屋城を築いた。以後、江戸時代御三家の一つ尾張徳川家が支配した。1871年(明治4)の廃藩置県により名古屋県となり、翌年に愛知県と改称、旧三河(みかわ)国地域を統合した。◇尾州(びしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾張国」の意味・わかりやすい解説

尾張国
おわりのくに

現在の愛知県西半部。東海道の一国。上国。もと吾湯市 (あゆち) 県主,尾張国造が支配。国府,国分寺ともに稲沢市。『延喜式』に愛智 (あいち) ,知多 (ちた) ,春部 (かすがへ) ,山田 (やまた) ,丹羽 (には) ,葉栗 (はくり) ,中島 (なかしま) ,海部 (あまへ) の8郡がみえ,『和名抄』には郷 70,田 6820町余。ただし『拾芥抄』では1万 1930町余。「記紀」神話の日本武尊の伝説にみえる熱田神宮は古来,大社として聞え,源頼朝の母が大宮司家の娘であったため,鎌倉時代初期には権勢を誇った。鎌倉時代の守護には小野氏,中条氏に続き正和~元弘年間 (1312~34) は北条氏の一族名越氏が任じられた。南北朝時代には高師泰が支配,室町時代には斯波氏が守護となったが,斯波義将は足利義満に仕えて管領となり,都にいることが多く,家臣織田氏を守護代とした。応仁の乱後,斯波氏の勢力が弱まるや織田氏は勢力を伸ばして尾張国を押え,信長は三河,美濃を攻略し,永禄3 (1560) 年には駿河の今川義元を愛知郡の桶狭間の戦いに破り,さらに近江に進出して京都に入って天下を掌握した。江戸時代には徳川家康の4男忠吉が入国したが,没後慶長 12 (1607) 年,9男の義直が封じられ,尾張徳川家で御三家の一つとして 53万 9500石,のち 61万 9500石を領して幕末にいたった。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県には名古屋県と犬山県,同年 11月には合併して名古屋県となり,同5年愛知県となる。

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百科事典マイペディア 「尾張国」の意味・わかりやすい解説

尾張国【おわりのくに】

旧国名。尾州とも。東海道の一国。現在の愛知県西半。古くから開け,尾張国造(くにのみやつこ)は皇室と姻戚関係があった。《延喜式》に上国,8郡。中世にかけて社寺・貴族の荘園が多く,大屋・斯波・織田氏らの支配を経て,近世初め徳川家康の子義直の所領となり,以後名古屋藩領。また家老として犬山城に成瀬氏をおく。→尾張国郡司百姓等解文御三家
→関連項目愛知[県]中部地方富田荘保内商人

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾張国」の解説

尾張国
おわりのくに

東海道の国。現在の愛知県北西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では海部(あま)・中島・葉栗(はぐり)・丹羽(にわ)・春部(かすがべ)・山田・愛智・智多の8郡からなる。国府・国分寺は中島郡(現,稲沢市)におかれた。一宮は真清田(ますみだ)神社(現,一宮市)。「和名抄」(名古屋市博本)所載田数は9450町余。「延喜式」では調に羅・綾・帛・糸や塩を,庸に韓櫃(からびつ)を定める。古代には尾張氏が国造として勢力をもった。古くから猿投(さなげ)窯・尾北(びほく)窯などで陶器が生産され,瀬戸焼や常滑(とこなめ)焼につながる。南北朝期には動乱が激しく,1352年(文和元・正平7)には近江・美濃とともに全国初の半済(はんぜい)令が出される。守護所は下津(おりづ)(現,稲沢市)におかれた。守護の土岐氏は足利義満に討伐され,その後斯波(しば)氏が守護職を世襲。戦国期には守護代織田氏が力をのばし,織田信長が国内を平定,全国統一へ乗りだした。関ケ原の戦後,徳川家康は四男の松平忠吉を配し,江戸時代には名古屋藩が大部分を支配した。1871年(明治4)の廃藩置県により名古屋県となり,翌年愛知県と改称。

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世界大百科事典(旧版)内の尾張国の言及

【愛知[県]】より

…東西約106km,南北約94kmで,知多・渥美両半島の突出によりカニの甲羅状を呈する。
[沿革]
 明治以前,愛知県は境川より東の三河国と西の尾張国からなっていた。近世には尾張国には親藩の尾張藩(名古屋藩)が置かれたが,三河国には吉田藩(1869年豊橋藩と改称),岡崎藩田原藩など譜代諸藩と天領,旗本領が散在した。…

※「尾張国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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