朝日日本歴史人物事典 「浅井図南」の解説
浅井図南
生年:宝永3.11.13(1706.12.17)
江戸中期の医者,本草家。名は政直のち惟寅,幼名は冬至郎,字は夙夜,周北,頼母と称す。号は図南,幹亭,篤敬斎。京都に生まれる。母は三谷氏。11歳から松岡恕庵に儒学,本草学を学ぶ。21歳のとき父浅井東幹が尾張藩医となって東行するがこれに従わず京都に開塾。宝暦3(1753)年父没後に尾張藩医となり名古屋に移る。恕庵から学んだ本草学を尾張に導入して尾張学派の淵源のひとりとなった。簡約敦実を好み人に接するに城府を設けず,家塾の門人は1200人に達し,塾はのち尾張藩医学館となり,孫貞庵,曾孫柴山が館主となった。『扁倉伝割解』を著し,恕庵の著書『怡顔斎蘭品』の序文を書く。<参考文献>浅井国幹『浅井氏家譜大成』
(遠藤正治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報