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浅井図南 あさい となん

美術人名辞典の解説

浅井図南

江戸中期の画家・本草学者。名古屋藩の儒医。京都生。浅井東軒の子。名は初め政直のち惟寅、字は凪ぐ夙夜、通称は頼母、別号に幹亭・篤敬斎。画を望月玉蟾に学び、特に墨竹に秀で、平安四竹の一人に数えられている。天明2年(1782)歿、77才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

浅井図南 あさい-となん

1706-1782 江戸時代中期の医師,本草家。
宝永3年11月13日生まれ。本草学を松岡恕庵(じょあん)にまなぶ。のち父東軒の跡をついで尾張(おわり)名古屋藩医となり,本草研究の嘗百(しょうひゃく)社をつくる。画にすぐれ,とくに墨竹では山科李蹊(りけい)らとともに平安四竹といわれた。天明2年8月5日死去。77歳。京都出身。名は政直,惟寅(これとら)。通称は頼母。別号に幹亭,篤敬斎。著作に「篤敬斎文稿」「扁倉伝割解」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

浅井図南

没年:天明2.8.5(1782.9.11)
生年:宝永3.11.13(1706.12.17)
江戸中期の医者,本草家。名は政直のち惟寅,幼名は冬至郎,字は夙夜,周北,頼母と称す。号は図南,幹亭,篤敬斎。京都に生まれる。母は三谷氏。11歳から松岡恕庵に儒学,本草学を学ぶ。21歳のとき父浅井東幹が尾張藩医となって東行するがこれに従わず京都に開塾。宝暦3(1753)年父没後に尾張藩医となり名古屋に移る。恕庵から学んだ本草学を尾張に導入して尾張学派の淵源のひとりとなった。簡約敦実を好み人に接するに城府を設けず,家塾の門人は1200人に達し,塾はのち尾張藩医学館となり,孫貞庵,曾孫柴山が館主となった。『扁倉伝割解』を著し,恕庵の著書『怡顔斎蘭品』の序文を書く。<参考文献>浅井国幹『浅井氏家譜大成』

(遠藤正治)

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367日誕生日大事典の解説

浅井図南 (あさいとなん)

生年月日:1706年11月13日
江戸時代中期の医師;本草家
1782年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

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