日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜松日本楽器争議」の意味・わかりやすい解説
浜松日本楽器争議
はままつにほんがっきそうぎ
1926年(大正15)に日本労働組合評議会が指導した代表的な労働争議。当時、浜松の日本楽器製造(現ヤマハ)には1272名の職工がいたが、この年評議会傘下の浜松合同労働組合に組織され、4月21日に12か条の嘆願書を会社に出した。これは衛生設備の充実や最低賃金実施など初歩的な内容であったが、社長天野千代丸は背後の評議会を重視してこれを認めず、26日に交渉決裂、組合はストライキに突入した。争議団は運動会や慰安会を催し宣伝隊を組織し、また労働者教育を行うなどして結束を固め、『争議日報』を出し、6月以降はアジト・細胞による秘密指導部の体制をつくり、労働争議の新しい形態を創出した。労働農民党や日本農民組合など全国の応援や市内の労働者・市民の支援も広がった。しかし右翼団体が介入し、警察も早期から警戒体制をとり、7月16日の会社重役宅にダイナマイトが投げ込まれた事件を機に一斉に活動家が検挙され、8月8日、解雇350名、解雇手当3万円という調停で105日間のストライキは労働者側の敗北に終わった。争議は昭和恐慌期直前の労働運動の高まりを示すものであった。
[梅田欽治]
『谷口善太郎著『日本労働組合評議会史』(1975・新日本出版社)』▽『大庭伸介著『浜松・日本楽器争議の研究』(1980・五月社)』