大正末・昭和初期の左翼無産政党。略称労農党。1925年(大正14)12月1日の農民労働党の結社禁止後、日本農民組合(日農)、官業労働総同盟の提唱により再組織運動が開始された。翌26年2月13日のいわゆる「玉姫倶楽部(たまひめくらぶ)申合せ」で日本労働組合評議会、政治研究会、全日本無産青年同盟、全国水平社青年同盟の左翼四団体のメンバーを排除するとしたのち、日農、日本労働総同盟(総同盟)、日本製陶労働同盟、日本労働組合総連合、東京市電自治会など七団体が参加して、3月5日に結成された(委員長杉山元治郎(もとじろう)、書記長三輪寿壮(みわじゅそう))。しかし左翼が個人加盟を通して支部結成運動や排斥反対運動を起こして党内に進出すると、10月の第4回中央委員会で日農、日本製陶労働同盟を除く五団体が脱退した(日本製陶労働同盟もまもなく脱退、日農は分裂)。このため正式に左翼に門戸を開放し、12月12日の第1回党大会で左翼政党としての路線を確定し、委員長に大山郁夫(いくお)、書記長細迫兼光(ほそさこかねみつ)を選出した。この時期、16支部連合会、106支部、党員7967人を擁した。このころから党は日本共産党の影響下に置かれ、城南(じょうなん)小作争議に端を発した議会解散請願運動、山東(さんとう)出兵に反対する対華非干渉運動、五法律制定要求運動などを果敢に展開し、27年(昭和2)の府県会選挙で11万票余(当選者13名)、28年2月の総選挙で19万票余(当選者水谷長三郎(みずたにちょうざぶろう)、山本宣治(せんじ))を獲得して無産諸政党のなかでもっとも有力な存在となった。しかし総選挙の最中や、直後の三・一五事件などで集中的な弾圧を受け、28年4月10日解散命令を受けた。
[吉見義明]
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大正末~昭和初期の左派無産政党。略称は労農党。農民労働党の結社禁止後,無産政党組織準備懇談会を母体に,左派を排除して1926年(大正15)3月結成。委員長杉山元治郎,書記長三輪寿壮(じゅそう)。左派の加入をめぐって対立し,10月に右派・中間派が脱退。12月に残留組は大山郁夫を委員長とし,左翼政党となった。日本共産党の影響下で28年(昭和3)の総選挙に大量立候補するなど公然活動を行ったが,3・15事件で活動家が検挙され,同年4月結社禁止となった。
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…24年政治研究会の創立に参画,無産政党運動に加わる。27年合法無産政党の最左翼たる労働農民党の委員長に就任,このため早大を追われた。同党の結社禁止後29年新労農党を創立,翌年東京から衆議院議員に当選。…
…右派無産政党。1923年末から労農団体や革新的知識人の間で合法無産政党結成の気運が盛り上がるが,日本労働総同盟(総同盟)などの右派は当局の弾圧を利用して日本労働組合評議会(評議会)など共産系を排除して,26年3月に労働農民党(労農党)を結成した。結党後,左派の門戸開放運動がすすみ地方を中心に左派が党内に進出してくると,総同盟や官業労働総同盟など右派勢力の代表は同党を脱退し,安部磯雄,吉野作造,堀江帰一の呼びかけに応じるというかたちで,同年12月5日に社会民衆党を結成した。…
…(1)労働農民党の略称 1925年12月農民労働党が禁止されたのち,日本農民組合(日農)と官業労働総同盟の呼びかけで無産政党準備懇談会が組織されたが,日本労働総同盟(総同盟)の強い主張で共産主義的色彩あるものの排除が申し合わされ,26年3月労働農民党(委員長杉山元治郎)が日本労働組合評議会(評議会)などの左派を除いて結成された。結党後,左派の門戸開放運動が起こり党内でも日農がこれに同調すると,総同盟など右派は10月党から脱退するにいたった。…
※「労働農民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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