朝日日本歴史人物事典 「海津幸一」の解説
海津幸一
生年:文化1(1804)
幕末の筑前国福岡藩士。名は正倫,通称吉助,幸一。又市の長男。文政9(1826)年父の家督を相続。家禄20石6人扶持。文武目付,勘定奉行,到来奉行などを歴任。万延1(1860)年,桜田門外での大老井伊直弼暗殺後,海津ら筑前勤王党は力を得,藩主黒田長溥の江戸参勤を阻止,藩政の尊攘路線化を建白した。が,翌文久1(1861)年,藩政を妨げたとして蟄居,家禄没収の結果をみた。元治1(1864)年勘定所に復職し財政再建に取り組んだが,長州出兵に際し藩論は二分。佐幕派が勝利し,慶応1(1865)年,自宅禁固ののち枡木屋の獄において自刃を命ぜられた。辞世の歌「竹の杖つくともつきし老てなほ うき節しけき世をたとる身は」。
(岩下哲典)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報