歌舞伎俳優(初世~3世),歌舞伎作者(4世~5世)。(1)初世(?-1736(元文1)) 道外方南北孫太郎。元禄(1688-1704)末から正徳期(1711-16)に江戸山村座また市村座で活躍した。(2)2世(?-1762(宝暦12)) 一説に1763年没。初世の子。初名源蔵。俳名魯風。父と同じく道外方。1726年(享保11)に上上吉の位となり,初世嵐音八,二朱判吉兵衛とともに江戸の道外方の三幅対といわれた。(3)3世 生没年不詳。2世の子。1765年(明和2)7月の紋番付にあらわれる。その娘お吉の婿が4世南北をつぐ。(4)4世(1755-1829・宝暦5-文政12) 海老屋伊三郎という紺屋の型付職人の子として,日本橋新乗物町に生まれる。幼名源蔵,のちに伊之助または勝次郎と改めたと伝えられる。1776年(安永5),見習作者として芝居の世界に入った。77年11月,初世桜田治助を立作者とする中村座に,桜田兵蔵の名で出勤するが,79年11月には名前が消える。翌80年5月,市村座に沢兵蔵と改名し,81年(天明1)8月から約半年消息をたったが,翌82年4月から森田座へ勝俵蔵の名で再勤する。いらい長い下積みの習作生活をかさね,先輩作者の助筆,補綴,〈小幕〉とよばれるコミカルな短い幕の執筆などを続けた。1803年(享和3)閏1月河原崎座の《世響(よにひびけ)音羽桜》で,はじめて立作者の地位にすわり(49歳),翌04年(文化1)7月河原崎座で初世尾上松助にあてて書いた《天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)》が,水中早替りなどのケレンで観客を瞠目させ,約2ヵ月半のロングランとなって大成功をとげた。南北はこれ以降25年間の作者生活を通じて,尾上松助のほか当時劇界3頭目としての地歩を占めつつあった5世松本幸四郎,3世坂東三津五郎,5世岩井半四郎,また新進の3世尾上菊五郎,7世市川団十郎らにはめて合計120編余の作品を書いた。
その執筆年代は,おおまかにはいわゆる化政期(1804-30)と称される時期に該当するが,松平信明が寛政改革の方針をうけついで老中首座にあった文化年間(1804-18)と,それ以後との2期にわけて考えられ,また1811年(文化8)11月に,義父の名跡,南北を襲名した時点(57歳)をもって2分することも考えられる。しかし現れた傾向はとくに画然とした作風の変化はない。むしろ一貫して迫真的な市井風俗や下層民衆生活を描写する〈生世話(きぜわ)〉の追求,また当時の観客の嗜好でもあった残虐な殺し場やきわどい濡れ場の描出に力点をおき,劇的展開と,仕掛物や亡霊などによる怪奇趣味,あるいは奇抜な趣向によって異質なもの同士を結合させ,世界の複合性を構築してゆくドラマツルギーなどが大きな特徴であったといえよう。
前期の代表作としては,公卿が辻君となって春をひさぐ趣向が評判となった《四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)》(1804年11月河原崎座),小幡(こばた)小平次の怪談に皿屋敷と天竺徳兵衛の世界を綯交(ないま)ぜにし,松助が小平次,鉄山,おとわなどの役々を演じた《彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)》(1808年閏6月市村座),幸四郎が演じた〈馬盥(ばだらい)の光秀〉の《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(1808年7月市村座),すでに好評を博した天竺徳兵衛を土台に阿国御前(松助)の怪談,累・与右衛門の早替り(栄三郎を3世菊五郎)を見せた《阿国御前化粧鏡(けしようのすがたみ)》(1809年6月森田座),本町糸屋の娘お房とお時(二役,半四郎)と本庄綱五郎(三津五郎),半時九郎兵衛(幸四郎),お祭左七(松助)らの活躍する《心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)》(1810年1月市村座),白藤源太の書替えの世話狂言で釣鐘権助(幸四郎)が源太(三津五郎)に殺される《勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)》(1810年3月市村座),善玉悪玉双方で18人ないし21人の登場人物が惨殺される返り討狂言で,幸四郎が左枝大学之助と立場の太平次という時代と世話の敵役を演じわけた《絵本合法衢(がつぽうがつじ)》(1810年5月市村座),風鈴蕎麦屋が娘を殺す双蝶々の書替狂言《当龝八幡祭(できあきやわたまつり)》(1810年8月市村座),また夏祭の書替えで,のちの四谷怪談の原型ともなった《謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちよつととくべえ)》(1811年7月市村座)などがある。この年7月に出された法令(狂言中府内地名の使用禁止,衣裳小道具法度,糊紅の使用禁止など)に抵触するところあってか,《謎帯》は興行を中絶した。幕府当局からの狂言差止めは1812年(文化9)1月市村座《色一座梅椿(いろいちざうめとしらたま)》でも惹起し,その年中不当りが続いたが,翌13年3月森田座での《お染久松色読販(うきなのよみうり)》(半四郎のお染の七役)は大当りを占めた。
後期の代表作には,半四郎の〈女清玄〉の《隅田川花御所染(すみだがわはなのごしよぞめ)》(1814年3月市村座),お六・八ッ橋(二役,半四郎)と願哲(幸四郎)の《杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)》(1815年5月河原崎座),公卿の息女が宿場女郎に転落した巷説を舞台化した《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)》(1817年3月河原崎座),俳優の日常生活を舞台化した〈世話の暫〉の《四天王産湯玉川(してんのううぶゆのたまがわ)》(1818年11月玉川座),菊五郎,幸四郎の亀山の仇討《霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)》(1822年8月河原崎座),菊五郎,半四郎,団十郎の不破名古屋と権八小紫の《浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)》(1823年3月市村座),清元《累(かさね)》を含む《法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)》(1823年6月森田座),その最高傑作である《東海道四谷怪談》(1825年7月中村座),深川五人斬事件を劇化した《盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)》(1825年9月中村座),また番付にみずから一世一代と銘うった最後の作《金幣猿嶋郡(きんのざいさるしまだいり)》(1829年11月中村座)などがある。その年11月27日没し,葬礼に際しては《寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)》と題する正本仕立ての摺物を配らせ,自分の手で死を茶化した。なお,草双紙(合巻)の著もあり,姥尉輔(うばじようすけ)の名義,南北の名義のものあわせて《金比羅御利生 敵討乗合噺》(1808)以下20作の余を数える。幕末期を代表する作者の一人として高く評価され,俗に大南北(おおなんぼく)と称される。(5)5世(1796-1852・寛政8-嘉永5) 4世の娘婿勝兵助の養子。俳名可祐。孫太郎南北と通称する。1825年(文政8)11月鶴屋孫太郎の作者名で番付に現れ,一時期,姥尉輔とも称したが1836年(天保7)7月森田座で南北の名をついだ。代表作《東鑑怪談噺(あずまかがみかいだんばなし)》(1840年6月河原崎座)ほか。門下に3世瀬川如皐,河竹黙阿弥がある。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
3世までは江戸歌舞伎(かぶき)の道外方(どうけかた)で、4世から歌舞伎作者となり、5世まである。ただし代数は「南北」の代数で、2世までは南北孫太郎を名のった。4世がもっとも名高い。
[古井戸秀夫]
(?―1736)旅芝居の株をもつ家系で5世にあたる。大芝居に進出し、道外(どうけ)方、頭取として活躍。
[古井戸秀夫]
(?―1762)鶴屋南北の初世。初世の子。享保(きょうほう)期(1716~36)に活躍した道外方。
[古井戸秀夫]
(1755―1829)作者としては初世。家系7世。「大(おお)南北」と称される。江戸・日本橋の紺屋(こうや)海老屋伊三郎の子。1776年(安永5)に狂言作者の見習いとなり、翌年から初世桜田治助(じすけ)の苗字(みょうじ)をもらい桜田兵蔵の名で番付に載る。その後、沢兵蔵、勝俵蔵(ひょうぞう)と改名、3世の娘お吉をめとり、その縁で旅芝居や見せ物の興行にも加わる。金井三笑(さんしょう)に師事し、86年(天明6)以降狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められる。97年(寛政9)に3世坂東(ばんどう)彦三郎付きの作者となり、99年に45歳で立(たて)作者となる。それまでの大芝居には少ない見せ物の蛇娘(へびむすめ)や棺桶(かんおけ)を舞台のうえに好んで使い、『誧競艶仲町(いきじくらべはでななかちょう)』など生世話(きぜわ)物に好評を得たのち、1804年(文化1)に初世尾上(おのえ)松助のために夏芝居『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き、これが出世作となる。以降、松助のために夏狂言を書き、怪談物の作者として名をなす。また、1806年から5世松本幸四郎一座の立作者となり6年間市村座に重年、『勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)』などで生世話物を完成させた。11年、57歳で4世を襲名、隠居格となり、実子直江重兵衛を相談相手に新境地を開き、『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)』など5世岩井半四郎の当り狂言を書く。文政(ぶんせい)期(1818~30)には7世市川団十郎や3世尾上菊五郎ら若手のためにも筆をとり、2世勝俵蔵(直江重兵衛)、2世松井幸三、勝井源八ら門下の立作者とともに江戸三座の新狂言の大半を一門で担った。29年(文政12)『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を一世一代として引退、同年11月27日に75歳で没した。
台本が伝わるものは80余種あり、以上のほか代表的なものに、生世話物の『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』『当穐八幡祭(できあきやわたまつり)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』、敵討(かたきうち)物の『鳴響御未刻太鼓(なりひびくおやつのたいこ)』『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』、夏芝居の『三国妖婦伝(さんごくようふでん)』『彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)』『阿国御前化粧鏡(おくにごぜんけしょうのすがたみ)』『玉藻前御園公服(たまものまえくもいのはれぎぬ)』『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』『独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』のほか、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなずま)』『御国入曽我中村(おくにいりそがなかむら)』があり、それらの要素を総合した代表作が『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』である。
その作風は、化政(かせい)期(1804~30)の退廃した世相を反映した凄惨(せいさん)な殺しと濡(ぬ)れ場を魅力とするが、本領はおかしみの茶番にある。俳諧(はいかい)式の自由な連想で婚礼と葬礼を一体化するなどの奇想で、場面を次から次へと展開させて観客の裏をいく小気味のよさが売り物。それが金井三笑譲りの緻密(ちみつ)な仕組みと十分な伏線、小道具の巧みな利用などによって筋立ての破綻(はたん)を免れている。南北風とよばれるこの特色は、やがて河竹黙阿弥(もくあみ)によって洗練され古典化する。なお、新作ではないが「馬盥(ばだらい)の光秀(みつひで)」(『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』)、「加賀見山(かがみやま)」(『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』)などの定本を定着させたことも意義が大きい。姥尉輔(うばじょうすけ)の名などで合巻(ごうかん)の作もある。
家系8世は2世勝俵蔵が継ぐ。
[古井戸秀夫]
(1796―1852)4世の娘の子。子役から作者になる。1821年(文政4)初出勤。鶴峰千助、鶴峰丑左衛門、鶴屋孫太郎、姥尉輔を名のり、37年(天保8)に5世。3世尾上菊五郎付きの作者として4世の旧作の補綴(ほてい)をもっぱらとした。門弟から3世瀬川如皐(じょこう)、河竹黙阿弥らが出た。
[古井戸秀夫]
『郡司正勝他編『鶴屋南北全集』全12巻(1971~74・三一書房)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
歌舞伎俳優・作者。江戸時代に5世を数えるが,3世までは俳優,4・5世は作者。4世が著名。4世(1755~1829)は文化・文政期に活躍した江戸の大作者。通称大南北(おおなんぼく)。3世の女婿。江戸日本橋生れ。初世桜田治助門下で,1777年(安永6)桜田兵蔵を名のって初出勤。その後,沢兵蔵・勝俵蔵(かつひょうぞう)と改名。1803年(享和3)立作者となり,11年(文化8)南北を襲名。作品数120編余。創意に満ちた仕掛物や怪奇趣味,エロ・グロ・ナンセンス,下層社会のリアルな風俗描写などが渾然一体となった独自の劇世界は,現代でも評価が高い。代表作「東海道四谷怪談」。第2次大戦前と大戦後に全集が刊行された。5世(1796~1852)は通称孫太郎南北。4世の女婿勝兵助の養子。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(古井戸秀夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…9幕19場(うち最後の1幕5場は未上演)。4世鶴屋南北作。1823年(文政6)3月江戸市村座初演。…
…通称《立場の太平次》。4世鶴屋南北,福森久助,2世桜田治助の合作。1810年(文化7)5月江戸市村座初演。…
…別名題《かさね菊絹川染》《音菊家怪談(かねてきくおいえのばけもの)》《室町殿所好(このみの)番組》《累扇月姿鏡(かさねおうぎつきのすがたみ)》《菊累音家鏡(きくがさねゆずりのすがたみ)》。4世鶴屋南北作。1809年(文化6)6月江戸森田座初演。…
…通称《お染の七役(ななやく)》。4世鶴屋南北作。1813年(文化10)3月江戸森田座初演。…
…4幕。4世鶴屋南北作。1810年(文化7)3月江戸市村座初演。…
…五瓶以後,この形式は必ずしも定着はしなかったものの,上方風の合理的な仕組みの骨格を江戸歌舞伎に注入した功績は大きい。
[化政期の歌舞伎]
江戸歌舞伎の伝統だった〈綯交ぜ(ないまぜ)〉の構成法を用いながら,五瓶によってもたらされた写実的手法をより徹底させて使うという,独自の作劇術を生み出し,〈生世話〉と呼ばれる市井写生劇の基礎を築いたのが,文化・文政期(1804‐30)を代表する4世鶴屋南北である。南北の作品に見る,残酷,非情,狂気,怨念のすさまじさは,他に比類を見ぬほどのものである。…
…2幕6場。4世鶴屋南北作。1825年(文政8)9月江戸中村座初演。…
…1811年(文化8)3月江戸市村座で3世坂東三津五郎が七変化所作事《七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)》の一つとして初演。作詞2世桜田治助,初世勝俵蔵(のちの4世鶴屋南北)。作曲3世岸沢古式部。…
…生世話の〈生〉は生粋の意と思われ,徹底した世話,世話物中の世話物の謂(いい)であろう。生世話という称は,上方の狂言作者の間で歌舞伎脚本の分類用語として用いられてはいたが,文化・文政期(1804‐30)の作者4世鶴屋南北が登場するに至って,彼の新しい作風を称する語となった。南北の生世話は写実に終始するものではなく,時代物的な様式性をも併せ持つ世界である。…
…原作は5幕であるが,現存台帳は五建目が欠けて4幕7場。4世鶴屋南北75歳の作。1829年(文政12)11月江戸中村座初演。…
…1806年(文化3)刊の式亭三馬作《雷太郎強悪物語(いかずちたろうごうあくものがたり)》をはじめとする合巻は,絵入小説の一種で,当代の人気俳優の似顔によって挿絵が描かれるなど,歌舞伎趣味の色濃く投影された出版物。当初,小説の劇化は劇場人の側から拒絶されてきたが(《作者年中行事》),4世鶴屋南北(合巻での筆名は姥尉輔(うばじようすけ))以降,劇界との交流が生まれ,草双紙の劇化も盛行した。劇化のはじまりは,山東京伝の読本《復讐奇談 安積沼(あさかのぬま)》(1803)と合巻の《安積沼後日仇討》(1807)に取材した南北の《彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)》(1808年閏6月江戸市村座)であった。…
…別名題《清水精舎(きよみずでら)東文章》《当流東文章》。4世鶴屋南北作。1817年(文化14)3月江戸河原崎座初演。…
…通称《女清玄(おんなせいげん)》。4世鶴屋南北作。1814年(文化11)3月江戸市村座初演。…
…1811年(文化8)7月江戸市村座に出された《玉藻前尾花錦繡》が(2)を最初に歌舞伎化した作品らしい。作者は4世鶴屋南北,福地久助ほか。その後,浄瑠璃と同じ《玉藻前曦袂》の名題のものが繰り返し上演され,今日ではやはり〈道春館〉中心の演目となっている。…
…歌舞伎俳優(初世~3世),歌舞伎作者(4世~5世)。(1)初世(?‐1736(元文1)) 道外方南北孫太郎。元禄(1688‐1704)末から正徳期(1711‐16)に江戸山村座また市村座で活躍した。(2)2世(?‐1762(宝暦12)) 一説に1763年没。初世の子。初名源蔵。俳名魯風。父と同じく道外方。1726年(享保11)に上上吉の位となり,初世嵐音八,二朱判吉兵衛とともに江戸の道外方の三幅対といわれた。…
…5幕。4世鶴屋南北作。江戸歌舞伎の夏芝居,旅芝居用の台本として書きおろされた最初の作品。…
…5幕。4世鶴屋南北作。初演の絵本番付では《あづまかいどうよつやかいだん》。…
…現行の外題は《時今也桔梗旗揚(挙)(ときはいまききようのはたあげ)》。4世鶴屋南北(勝俵蔵時代)作。1808年(文化5)7月江戸市村座初演。…
…1811年(文化8)7月《玉藻前尾花錦繡(たまものまえおばなのにしきえ)》の二番目世話狂言として江戸市村座で初演。4世鶴屋南北と福森久助の合作。大島団七を5世松本幸四郎,一寸(いつすん)徳兵衛を3世坂東三津五郎,お辰・お梶を5世岩井半四郎ほか。…
…最初は1793年(寛政5)1月大坂中の芝居の辰岡万作・近松徳叟作の《けいせい楊柳桜(やなぎさくら)》で,柳沢騒動に淀屋辰五郎の話を配している。ついで1819年(文政2)5月江戸玉川座の4世鶴屋南北作《梅柳若葉加賀染(うめにやなぎわかばのかがぞめ)》。これは加賀騒動物の《加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)》に仮託して柳沢騒動を脚色したもので,多賀の大領には将軍綱吉を,望月帯刀には柳沢吉保を当てこんでいる。…
※「鶴屋南北」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新