精選版 日本国語大辞典 「文化」の意味・読み・例文・類語
ぶん‐か ‥クヮ【文化】
(2)明治三〇年代後半になると、ドイツ哲学が日本社会に浸透し始め、それに伴い「文化」はドイツ語の Kultur (英語のculture)の訳語へと転じた。それによって、次第に「文化」と「文明」の違いが強調されるようになった。大正時代には、「文化」が多用され、「文明」の意味をも包括することとなった。
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翻訳|culture
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日本語の〈文化〉という語は〈世の中が開けて生活水準が高まっている状態〉や〈人類の理想を実現していく精神の活動〉を意味する場合と,〈弥生文化〉というように〈生活様式〉を総称する場合とがある。社会科学の諸分野では第2の意味で〈文化〉という概念を使用するのが普通であるが,この意味における〈文化〉についても定義は多様であり,時代的な変化も見られる。
文化人類学における文化の定義の中で最も古典的なものは,E.B.タイラーが《原始文化》(1871)の冒頭で示した定義である。彼は〈文化または文明とは,知識,信仰,芸術,道徳,法律,慣習その他,社会の成員としての人間によって獲得されたあらゆる能力や慣習の複合総体である〉と述べた。こういう包括的な文化の概念はB.マリノフスキーやF.ボアズらによって受け継がれ,その後もさまざまな文化の定義が行われたが,基本的にはタイラーの定義が用いられることが多かった。ところが最近になって,このような文化の概念は研究を進めるうえであまりに包括的で広すぎるという批判が生まれてきた。たとえばC.ギアツは,文化の概念をせばめ,いっそう強力な概念にすることが現代の人類学における一つの課題であると述べている。しかしこれをどのようにせばめるか,どのように定義するかについては,現在のところ一致した見解があるわけではない。
その中の一つは,文化を自然環境に対する適応の体系として見る見方である。主として猿人類から新人類にいたる文化の発展を研究する立場に立つ人々と,文化を生態学的に研究する立場に立つ人々がこの見方をとり,文化を,生態学的に有用で,社会的に伝達される行動様式としてみ,文化の変化を適応の過程と見る。メガーズB.J.Meggersは,〈人間は一個の動物であり,したがって他のすべての動物と同様,その生存のためには,周囲の環境との適応関係を維持していかなければならない。人間は主として文化を媒介としてこの適応をとげてゆくものであるが,そのプロセスの方向は,生物の適応を支配する自然選択の法則によって規制される〉と述べている(《アマゾニア》)。文化を適応体系と見る立場は,技術,経済,生産に結びついた社会組織の要素が文化の中心的な領域と見る。ハリスM.Harrisの〈文化物質主義cultural materialism〉,サービスE.Serviceの〈文化進化主義cultural evolutionism〉,またスチュワードに由来する〈文化生態学cultural ecology〉,ラパポートR.Rappaportらの〈人類生態学human ecology〉などの間には,それぞれ適応の変化がいかに生まれ,いかに行われるかについて異なった見解がみられるが,ラパポートを除き,いずれも経済とそれに関連する社会的側面を第一義的な要因と考え,観念体系(宗教,儀礼,世界観など)を二義的な随伴現象とみる点では共通している。ラパポートは,儀礼の周期を適応体系の構成要素としてとらえている。
文化を適応体系として見る上述の見解と対照的に,文化を観念体系としてとらえる立場がある。それには,文化を認識体系としてとらえるもの,文化を構造体系としてみるもの,文化を象徴体系として見るものがある。認識体系としての文化を力説したのはグッドイナフW.Goodenoughである。彼は文化を,人々の知覚,信念,評価,行動に関する一連の規準であるとする。言い換えると,文化を〈物的現象,事物,できごと,行動,感情を知覚し,秩序づける固有の体系〉と見る。こういう見方はエスノサイエンスethnoscience,認識人類学などといわれる研究分野を発展させた。この立場の人々は,生物学や自然環境の要因よりも人間の精神活動を重視し,現象を秩序づける〈文化の文法〉の発見に努める。研究の方法としては言語に重点をおき,言語を,認識ないし認知過程の鋳型であるとともにそれを反映するものとしてとらえる。そして特定の社会においてどのように分類が行われているかを見いだそうとすることに重点をおくが,その反面,対象社会がそれらのカテゴリーを実際にどのように使用しているか,またその民俗分類は生活のどんな場面に現れるかといったことについての研究がおろそかになりがちであったために,無味乾燥で断片的な民族誌におちいってしまうという批判を受けることにもなった。
文化を観念体系として見る第2のものは,フランスのレビ・ストロースである。彼の唱える構造主義はイギリス,アメリカの人類学界にも大きな影響を与えている。レビ・ストロースは文化を〈人間精神〉が生みだした象徴体系としてとらえ,親族関係,神話,芸術などの分析を通じて,これらの文化的所産を生みだした精神ないし思考の構造を明らかにしようとする。彼にとっては,自然環境や経済などの物的条件は文化に限界を与えるが,それを説明するわけではない。精神の構造において最も基本的なものは二項対立と変形である。多くの民族の観念的で,象徴的な対立の中で最も重要なものは〈自然〉と〈文化〉の対立であると主張する。またたとえば,特定の動植物を集団の始祖としているトーテミズムという制度において,特定の動植物がトーテムに選ばれるのは,それが実利性をそなえているからではなく,自然界における対立と対(つい)が集団の対立と対の関係を表すのに用いられたのだとレビ・ストロースは解釈する。たとえばオーストラリアのある原住民の村は,半族(双分組織)と呼ばれる二つの集団に分かれ,一方はワシをトーテムとし,他方はカラスをトーテムとしている。この2集団は同じ先祖から分かれ,対立しており,この対と対立がワシとカラス(いずれも肉食だが前者が略奪者であるのに対し,後者は腐肉をあさる鳥である)の対(類似性)と対立(対照性)によって表されているというのである。彼はトーテミズムを,自然界と社会を含む万物を分類するという人類の一般的性向に随伴しておこる現象と見ている。レビ・ストロースの神話の分析には,確かに誇張や言過ぎがあるかもしれないが,彼の功績について〈ある精神的大陸の開拓者が地図を十分に書いていないということで彼を非難すべきでない〉とスペルベルD.Sperberが述べているが,そのとおりであろう。
前述の二つのアプローチとは異なる今一つの文化のとらえ方は,シュナイダーD.Schneiderとギアツによってなされている。シュナイダーは,文化を象徴と意味の体系であると定義する。文化はカテゴリーあるいは単位から,また行動についての規則からなりたっている。それらのカテゴリーは見えるものとはかぎらない。死者とか先祖も文化のカテゴリーである。文化を象徴体系としてとらえるもう一つの立場は,ギアツの文化解釈学である。ギアツは文化を意味論的にとらえる。人間はみずから紡ぎ出した網の目に支えられた動物であり,文化とはその網の目にほかならない。したがってその分析は法則性を求める科学ではなく,意味をさぐる解釈学であると彼は考える。特定の文化をテクストの集合体としてとらえ,その解釈を行う。そしてその解釈は対象社会の生活という脈絡に根ざした〈厚い解釈thick description〉でなければならないと主張する。彼は,エスノサイエンスの立場のように文化のコードが〈文法〉に翻訳されるとは考えない。文化のテクストの解釈は容易な課題ではなく,時間を要する困難な課題である。彼はインドネシアのバリ島の研究において,彼のいう解釈学的方法を適用し,成果をあげた。この中でギアツは,出生順位名,親族名称,暦の原理などの分析を通じてバリ島における時間の観念が循環的であることを力説した。彼はこのように文化内の論理的一貫性を示すとともに,文化内の統合を強調しすぎることは危険であり,文化内の矛盾や不統一はそれぞれがかってに動き出すタコの足を思わせると述べている。
エスノサイエンスやギアツとは違う角度から象徴性の意味を研究する人たちにターナーV.Turner,ニーダムR.Needham,スペルベルがいる。ターナーはヌデンブ族の儀礼における象徴の意味を住民自身の解説によってとらえ,さらにいくつもの象徴の間の関係をさぐる。ニーダムは象徴的分類,とくに二元的象徴体系,特定の集合表象などの比較文化的考察を行っている。ニーダムは,片目,片頰,片腕,片胴,片足といった半分の人間のイメージが世界の諸民族にみられることについて,こういうモティーフに多くの民族が本来ひきつけられる傾向があることを力説し,伝播による説明も,独立に発生したという説明も本来同じことを言っているのだと論じている。
エスノサイエンスの立場の人たちは,言語の分析による厳密な科学的方法をとり,慣習,儀礼といった具体的な行動との連関を軽視するのに対して,ギアツ,シュナイダー,ターナー,ニーダム,スペルベルはそれぞれ独自の方法はとるものの儀礼活動,親族関係,慣習,世界観などの具体的な民族誌的資料を重視し,その分析を通じていわば〈隠れたカテゴリー〉を探求し,文化的象徴性を社会的脈絡においてとらえようとしている。
文化の概念の定義については,哲学,歴史学,社会学,人類学においてさまざまになされてきた。しかし,たとえば,現代の社会学においては,文化とは何かと問うことよりも,文化は社会のなかでいかなる作用や機能を果たしているかが問題とされるようになっている。アメリカの社会学者ベルDaniel Bellによると,現代の脱工業社会における文化の問題とは,文化が社会構造から乖離(かいり)してきていることである。工場や企業における労働組織や職務配分,地位の配置など産業社会の〈社会構造〉とされている部分は,機能合理性,最小コストの原則,欲望延期説的な価値を前提としている。これに対し,人々の行動や生活のスタイル,芸術的な感性など〈文化〉については対抗文化(カウンター・カルチャー)の影響のもとで反合理主義的なモダニズムが広まっている。すなわち,産業構造はプロテスタンティズム的禁欲倫理を求めるもののままであるのに,文化は自己表現的,ないし生活享受的なものとなっている。文化は社会構造に働きかけるものであるから,この乖離の長期的な結果を社会学者は問題とするのである。
社会の全体のなかで文化をみると,文化とは家庭や学校,マス・メディアなど制度の網目を通じて伝達されていくものである。伝達されるものの内容からいえば,文化には社会に関する価値,規範,神話,象徴,情報などが内包されている。それゆえ,文化は社会のさまざまなレベルの行為者の施策に媒介されるとともに,伝達されるものの内容を媒介としつつ,一社会の人々の間での資源,権力,威信などの配分,すなわち,社会構造に影響をあたえる。それゆえL.アルチュセールなどのようにこれらの文化伝達の制度をすべて〈国家のイデオロギー装置〉と考え,支配階級による支配への国民の合意を調達することがその機能だと説明している人々もいる。このような観点から,学校教育とマス・メディアを現代における主要な問題点として重視する研究者も多い。
このような機能主義的な文化の概念とは異なり,構造主義の影響のもとでは,文化は人間の知の記録の集積であり,その知はコードとして構造化されると考えられた。他方,文化をすべて客体的な構造や文化所産ととらえることに対して,文化を何よりも人間が豊かな意味を生きるところの体験であるとする考え方も広まっている。フランスの社会学者モランEdgar Morinは,文化を構造と体験との間で相互に媒介を行うシステムとして定義している。文化システムは人間のさまざまな体験のうちから,共通なものとすることができ蓄積可能なものをとりだし,おのおのに芸術,文学,哲学,などの作品の形でコード化し,記録し,文化的財として蓄える。これらの文化的財は,その言語や教養などその文化コードを所有する人々によって利用されるのである。かつて体験されたり創作され作品としてコード化されたものは,文化のコードの所有者によって解読され,想像のうちで体験される。このようにして人間は現実と虚構を分離したり混合したりすることによって,現実に対して効果的なしかたで働きかけることができるし,また想像のなかでの生の享受ができる。社会における人間と人間のコミュニケーションは,このような文化システムを媒介しつつなされるところが大きい。
モランの文化の定義は,現代の文化のうちにみられる教養文化(高級文化)と大衆文化との対立をよく説明するとともに,現代における教養文化の危機をよく説明する。教養文化は高度に知的であり,洗練された趣味という知のコードを所有することにほかならないが,その所有は有利な社会的地位の独占と結びついているから,一般の人々はそこから排除される傾向が強い。だがまた,教養文化の所有者の間で成立する知の共同体においても,教養文化を活性化してきた知のコードの更新において,現代では行詰りをきたしている。
さらに今日,文化は社会的不平等を説明する文化資本capital culturelの理論において問題とされている。フランスの社会学者ブルディユPierre Bourdieuは社会的不平等を経済的なそれからではなく,文化資本の配分の不平等から説明している。すなわち,文化資本とは大学を含めた学校教育体系を通じ教育・形成された人々により獲得される理論的・技術的な知識のことである。この知識は中産階級の家庭の有する教養と近いものであることからこの階級の人々には有利であり,学校教育体系は普遍的な知識をあたえるという外観のもとで階級的な選別を行っている,と。文化資本は個人に身体化されたり,卒業資格として制度化された状態で存在する。いずれにせよ経済的資本は,現代の社会のさまざまな回路を通じて文化資本に変形していくし,また文化資本は社会的地位と経済的利益をもたらし,そのようにして社会構造の再生産は保障されるのである。近年においては,文化を規範や教養の普遍的存在様式と考えるよりも,その普遍的外見ゆえに社会的不平等を再生産するものとみる研究者が増えている。
→文明
執筆者:杉山 光信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
漢語としての「文化」は「文治教化」(刑罰や威力を用いないで導き教える)という意味で古くから使われ、文化・文政(ぶんせい)という年号にも使われた。しかし、今日広く使われている「文化」は、ラテン語cultura(耕作・育成を意味する)に由来する英語culture、フランス語culture、ドイツ語Kulturの訳語である。中国でもこの訳語が逆輸入して用いられている。この訳語は通俗的には、たとえば文化住宅、文化的な暮らしという表現のように、近代的、欧米風、便利さを示すことばとして広範に使われてきた。また、これとは別に、学問的な装いを凝らした用法が二つある。第一は、学問、芸術、宗教、道徳のように、主として精神的活動から直接的に生み出されたものを文化という。そこには、少なくとも理念としては、人間の営みを充実向上させるうえで新しい価値を創造するという意味が含まれている。ひと口にいえば、知性や教養ともいえる。この用法は、多くの場合文明と対比して使われ、物的な所産を文明とよぶドイツの思想を受け継いでいる。この用法は、次に述べる第二の用法よりも普及しているし、第二の用法においても、第一の用法の意味が暗黙裏に下敷きとされている場合が多い。第一の用法は普通、個別文化の間に高低・優劣という評価を伴いがちであるが、第二の用法はこうした評価を下さない。すなわち、第二の用法は、あらゆる人間集団がそれぞれもっている生活様式を広く総称して文化とよび、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっているから、個別文化の間には高低・優劣の差がつけられないとする。採集狩猟、定住食糧生産、都市居住者の商工業を営む人々の生活様式にはそれぞれ独自な価値があり、その間に甲乙はないとされる。この第二の用法はイギリス、アメリカなどの文化人類学の主張であり、日本にも第二次世界大戦後に急速に普及した。以下、第二の用法の「文化」を説明する。
[鈴木二郎]
動物の行動はもっぱら遺伝と本能によって支えられているが、人間は、遺伝と本能に加えて、経験と模倣、および言語を通して、集団の一員としての思考、感情、行動を仲間から学習(習得)し、獲得したものを同世代、後世代の人々に伝達する。こうして集団の一員として学習、伝達されるものが、一つのセットとして統合性をもつ総体を文化と定義できる。たとえば国家、民族、部族、地域、宗教、言語などのレベルで、アメリカ文化、漢族文化、エスキモー文化、オセアニア文化、イスラム文化、ラテン文化などがあげられる。これらの一部分を構成して相対的な独自性をもつものをサブカルチャー(下位文化)という。たとえば、個別文化における農民文化と商人文化、東日本文化と西日本文化、貴族文化と庶民文化などが下位文化の例としてあげられる。
[鈴木二郎]
文化をもつのは人類だけであり、動物には文化がないというのが通説であるが、この違いを脳の発達程度から説明することはできない。複雑な道具の製作は人類に限られるとよくいわれるが、人類の原初的形態とされるアウストラロピテクスの脳容量は複雑な道具を製作しない類人猿のそれとほぼ同じだからである。人類と動物の違いを決定的にしたのは直立二足歩行である。直立二足歩行によって、人類の大脳に言語中枢が発生し、神経調整が高度化したので、言語が生まれ、複雑な道具の製作が可能になった。言語は、音声が無秩序に合成されたものではなく、各集団が独自に、特定の音声を特定の規則性に基づいて配列し、それに特定の意味を与えて象徴的に使用するものである。こうした言語の発生が、複雑な記憶を可能にし、思考の抽象化と体系化を可能にした。こうして人類は初めて、学習能力を飛躍的に高め、学習内容を正確かつ広範囲に伝達するようになった。この点に人類と類人猿の違い、ひいては文化の発生を認めるのが通説であるが、これに対して、類人猿にも言語が芽生えているし、文化の萌芽(ほうが)があるとして、これを原文化proto-cultureとよぶ考え方もある。
[鈴木二郎]
思考、感情、衣、食、住、機械、制度などが一つのセットとして集団の文化が構成されており、これらの構成諸要素は言語、価値、社会、技術の4分野に大別される。各分野はそれぞれ独自の機能と相対的な自律性をもつと同時に、互いに関連をもちつつ補足しあい、一つの全体としてのまとまりをもっている。このうち、独自の機能と自律性をもっとも強く保ち、他分野からの影響をもっとも受けにくいのは言語である(借用語は増えても発音、文法の基礎はきわめて変わりにくい)。価値の分野(道徳、思想、宗教、自然観、価値観など)は人間の内面にかかわり、すべての行動の方向決定を左右する。このような言語と価値を重視した視点から、文化に関する前述の第一の見解が成立してくる。慣習、制度、法律から日常的交際を含む社会関係は、他の分野とのかかわりが大きい。技術は、科学・経済的活動、自然への適応にとって中心的役割を果たし、他の3分野と違って、累積的であることがはっきりしているし、進歩という尺度を当てはめることができる。
各集団はそれぞれ、文化の構成要素を無秩序かつ恣意(しい)的に寄せ集めるのではない。そこには、たとえ個人としては気づかないにせよ、集団の選択意思が働いている。こうした過程のなかで、諸要素は統合され、一つの全体を構成し、結果としては独自性をもつ個別文化が形成される。個別文化を構成する一つ一つの要素は基本的には、全体を構成する部分として機能する。したがって個別文化は、無機物のような集合体でないのはもちろん、価値によって生き方(存続の基盤と方向)を調整する点において、人類以外の有機物とも違うので、超有機的であるともいえる。以上の意味で、文化は統合形態configurationともいわれ、個別文化は独自のパターン(型、類型、範型)をもっており、個別文化は主題themeをもっているということができる。
ある一つの文化要素、または文化諸要素の複合(組合せ)を地域的な広がりとして把握したものが文化領域である。この際、歴史的な生成の過程に対応して文化層を設定して、これと空間的な広がりを重ね合わせたものが文化圏である。文化領域・文化圏はともに、個別文化の内部にも、個別文化を超えてもみいだせる。
[鈴木二郎]
個別文化は長期間にわたり、外部的・内部的な調整を経て統合され、独自なパターンを形成したものであるから、固執性をもっており、変化しにくい。しかし、内部諸要素間の矛盾、または外部環境の変化にうまく適応できないで、統合性が弱くなると、別の新しい統合を求めて変化が生じる。民族性も国民性も不変のものではなく、変貌(へんぼう)するものである。
文化諸要素のなかには、直接に知覚し、気づきやすいものと、そうでないものとがある。前者は顕在的文化といわれ、後者は文化の基層部に潜んでいるものであって、隠れた文化とか基層文化といわれる。概して後者のほうが前者よりも変化しにくいので、両者の間に変化する程度にずれが生じやすく、これを「文化のずれ」cultural lagという。たとえば明治以降の日本では、産業や制度は急速に欧米化・近代化の道をたどってきたが、日常生活、家族観、男女観などには古い伝統や因習が強く残っており、そこには大きな「ずれ」がみられる。
文化の変化を引き起こすものは、究極的には当該文化の内部にあるのか外部にあるのか、それは具体的にはなんであるか、という問題は、個別文化の中核にあって統合を規定し、その文化の構造を規定する決定要因を何に求めるかという問題でもある。文化人類学者のなかでは、これをアメリカの人類学者ベネディクトがライト・モチーフ、同じくアメリカの人類学者クラックホーンがエトスとよんで、価値体系ないし精神活動としてとらえている。他方、マルクス主義では、物質的条件、とくに経済行動(下部構造)を決定要因であるとし、生産力と生産諸関係の矛盾からすべての変化が説明される。さらに、文化のなかでの言語・価値の分野を重視して、上部構造である文化は下部構造からの相対的自律性を保つとして、マルクス主義を限定的に解釈する立場もある。これらの論議は多岐にわたり、多かれ少なかれ歴史観、世界観、イデオロギーとも関連しており、定説はないというのが穏当な見解であろう。
文化を主要な研究対象とする文化人類学の学説史をみても、文化変化を引き起こす究極的な要因は十分には説明されていない。関連する学説としては、単系的進化論(文化は世界中どこでも一様な過程を経て進化する)、独立起源説(人間の精神的素質はどこでも本質的には同一であるから、類似した文化がどこにでも独立的に発生する)、伝播(でんぱ)説(文化の発展を促したような主要な発明・発見は地球上の一か所でおこり、それが各地に伝播する。文化圏もその変形)などが批判されたあとに、多線的進化論(各地の条件に応じて特定の文化が各地で別々に進化する)が唱えられた。これらの論議はどれも厳密な論証を欠き、今日の学界はこの論議にあまり関心を示さない。文化人類学界の主流は、個別文化のいっそう精緻(せいち)な実証研究に励み、文化変化の決定要因の一般化にはあまり関心を示さない。
他方、文学や思想の分野においては、実証を伴わない文化論が盛んである。こうしたなかで、文化の決定要因を探る努力はいっそう推進されるべきであろう。
[鈴木二郎]
個別文化は独自性と特殊性をもっていて、諸々の個別文化の間に優劣はないというのが文化相対主義である。確かに、個別文化は他の個別文化にとってかえられない独自性と特殊性をもっている。したがって、その文化自体に即して内在的に理解することが必要である。すなわち、個別文化を構成する諸要素の内容と諸関係を把握するだけではなく、それらが当該個別文化にとって、どのような独自な意味をもっているかを解明しなければならない。ところが、ある現象の固有な意味は、類似の現象にみられる共通な意味との違いを前提にして初めて明らかになる。もともと特殊性と普遍性の関係はそのようなものであって、個別文化の理解には汎(はん)人類的な認識が必要である。
汎人類的なものとして、だれもが人間性(ヒューマニティー)を仮定する。人間性というのは、ホモ・サピエンスのだれもが、幼児期以後に、普通の学習能力をもっている限り、文化によって特徴づけられている社会のなかで育てられるときにもつようになる性質のことである。両性の存在、幼児の無力さ、食と住と性愛という基本的な条件に対応するために、人類は少しずつ異なった(特殊的な)数多くの解答(よしとされ是認された扱い方)を用意している。こうした文化の相対性の底には、すべての文化がもっている基礎的な枠組み(たとえば親族の形態、結婚の規則など)があり、そこに人間性をみいだすことができる。この人間性をもっとも典型的に示すのが近親相姦(そうかん)禁忌(インセスト・タブー)だとされてきた。しかし、この禁忌についても、再検討が進むにつれて、その普遍性を疑問視する説が強まっている。
こうしてみてくると、文化の普遍性に関するわれわれの認識は、文化の特殊性に関する研究に比べてはるかに遅れていることがわかる。文化の普遍性と特殊性という対照的な極限概念は、車の両輪のような不可分離の関係をもっているし、また、文化を理解し分析するうえでつねに意識され追求されているにもかかわらず、十分には使いこなされておらず、期待しているほどの成果があげられていないので、今後の文化論はこの方向に向けていっそうの努力を傾けることになるであろう。その努力を怠るならば、自らの個別文化によって条件づけられている現実存在としてのひとりひとりの人間が、人類的広がりのなかに展開している無数の異文化を理解して、真の相互理解に達することはむずかしいはずである。
[鈴木二郎]
こうした見地からみると、日本文化に関する多くの議論もまた、もっぱら日本文化の特殊性の解明に向けられているので、はたして特殊であるかどうかさえ危ぶまれる。かりに特殊性のみを追求するとしても、その方法論には多くの疑問が提出されている。日本文化論のキーワードとしてあげられるのは、タテ社会、甘え、コンセンサスないし調和、集団志向などであるが、どの概念も不正確であって、現象を描写する叙述概念として使われていると同時に、異文化と比較するための変数としての分析概念としても使用されている。また、適切なサンプル抽出の手続を経ないで、恣意的・断片的な実例や体験だけから一般化が試みられている。さらに、「西洋」や「欧米」を十把ひとからげにしたステレオタイプ的なイメージに基づいて、日本の特殊性が説かれている。また、歴史的に考察しないで、不変の「日本的なもの」があるかのように主張されてもいる。こうした根本的な欠陥をもつ日本文化論、ひいては日本人論、日本社会論が、しばしば政界・財界のイデオロギーとしても国内で喧伝(けんでん)されるばかりでなく、国際社会にも輸出されている。これらの批判を踏まえた新しい日本文化論が、主として外国人の日本研究者を中心として展開され始めている。
[鈴木二郎]
『加藤秀俊著『文化の社会学』(1985・PHP研究所)』▽『『岩波講座 哲学 第13巻 文化』(1968・岩波書店)』▽『『新岩波講座 哲学 第12巻 文化のダイナミックス』(1986・岩波書店)』▽『杉本良夫、ロス・マオア編著『日本人論に関する12章 通説に異議あり』(1982・学陽書房)』▽『レイモンド・ウィリアムズ著、小池民男訳『文化とは』(1985・晶文社)』▽『F・アラン・ハンソン著、野村博・飛田就一監訳『文化の意味』(1980・法律文化社)』
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…文化的衝撃と訳されることもある。文化とは人間の行動や考え方の指針となる価値体系のことである。…
…白鳩の場合,本来,記号とは考えられていないものが記号と考えられる例であるが,たとえば服装なども実用的機能を果たす以外に,集団への所属やそこでのステータスを表し社会的評価を担っているのである。このように考えていくならば,人間のあらゆる社会的・文化的行動が記号としてとらえられることになる。 人間的なるものはすべて記号と見なすことができ,それは言語によって名指されることにより存在を得る。…
…(1)死亡届 人が死亡した場合には,届出義務者(親族,その他の同居者,家主など)がその事実を知った日から7日以内に,診断書または検案書を添付して,死亡地の市区町村長に届け出なければならない(戸籍法86~93条)。(2)埋葬,火葬,水葬 死体の葬り方は国により文化によってさまざまである(遺灰を川に流す国,鳥葬が行われている国など)。日本では,〈墓地,埋葬等に関する法律〉(1948)によって,埋葬(土葬をいう),火葬を原則とし,特別な場合として,船員法15条で船舶の乗員の水葬が認められている。…
…multiculturalismの訳語で,一つの社会において複数の文化の共存を是とし,文化の共存がもたらすプラス面を積極的に評価しようとする主張や運動を指す。人の国際移動が日常化し,多くの大都市が多民族を含んだ空間となっている現代では,しばしば多文化主義が要請される。…
…文化人類学の用語。二つの文化が直接あるいは間接に接触した場合,一方の文化から他方の文化へ,文化要素の移行・受容が行われる現象をさす。…
…文明の語civilizationがラテン語の市民civisや都市civitasに由来するように,とくに都市の文化をさすことが多いが,19世紀の末に〈文化〉を最初に定義したE.B.タイラーは,〈文明〉と〈文化〉を同一視している。プラトン,アリストテレス,T.ホッブズなどは〈文明〉と〈社会〉を同一視し,文明以前を無秩序な状態(自然状態)と考えた。…
※「文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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