海草郡(読み)かいそうぐん

日本歴史地名大系 「海草郡」の解説

海草郡
かいそうぐん

面積:一六九・四四平方キロ
美里みさと町・野上のかみ町・下津しもつ

明治二九年(一八九六)海部あま郡と名草なくさ郡を合併して成立した郡で、郡名は合併両郡名より一字ずつ取った。その後那賀なが郡の一部併合や分離を繰返し、現海草郡域は、下津湾に臨む海岸部とその後背地からなる旧海部郡域の下津町、海南市を挟んで東方、貴志きし川流域の旧那賀郡域に属した野上・美里の両町のみで、旧名草郡域は含まない。

〔原始〕

古く紀ノ川河口平野を中心とした地域は、現在より深く海が湾入していたと考えられ、周辺山麓の汀線および湾に流入する多くの河川流域に生活の根拠地が展開され、そこに遺跡の分布がみられる。

貴志川に沿う縄文遺跡としては野上町東野ひがしの動木とどろきかしこ池・下佐々しもささ福井ふくい、美里町の三尾川みおのがわ大角おおすみ赤木あかぎ安井やすい野中のなか福田ふくだ円明寺えんみようじなどがあるが、いずれも遺物散布地にすぎない。下津町では上の馬かみのうまたにしも遺跡がある。弥生遺跡は野上町にはなく、美里町毛原上けばらかみ笹の瀬ささのせ、下津町の下などでの出土品が知られる。古墳時代は紀ノ川河口平野の成長とその生産力の拡大によって古墳の分布が中心部に現れるが、現海草郡域は周辺地帯で古墳を残すほどの階層が育たなかったためか、比較的少なく、土器散布地を別にすれば下津町の女良めら馬瀬うませの各古墳群をみるだけである。

〔古代・中世〕

紀伊国のなかでも紀ノ川河口平野を中心とする旧名草郡域は経済的文化的な先進地域であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報