紀伊国(読み)きいのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

紀伊国
きいのくに

現在の和歌山県全域と三重県南部の尾鷲市,熊野市および南牟婁郡,北牟婁郡。南海道の一国。面積約 5700km2。上国。もと紀伊国造と熊野国造が置かれたが,紀伊国造は紀直 (きのあたえ) が,ヒノクマノカミ (日前神) ,クニカカスノカミ (国懸神) の2神をまつる神社を中心として,現在の和歌山市一帯に勢力をふるい,律令時代にも出雲国造とともに新国造として朝廷から遇されていた。これに対し熊野国造については不明な点が多いが,熊野地方は「記紀」の神武天皇の伝承にもみえ,信仰のうえでも特別の地域とみられていた。国府は和歌山市,国分寺は紀の川市にあった。『延喜式』では紀伊国を伊都郡,那賀郡,名草郡,海部郡,在田郡,日高郡,牟婁郡の7郡としており,『和名抄』では郷 56,田 7198町としている。平安時代末期には牟婁郡の熊野三山がにわかに上下の信仰を集め,のちの修験道の一大中心地となったところである。これに対し仏寺は,北部の紀ノ川上流の高野山金剛峯寺,下流の粉河寺根来寺などがあり,軍事的な勢力をも有した。これら社寺の勢力が強大であったため,武家勢力は成長しなかった。鎌倉時代,佐原義連が守護となったが,まもなく熊野御幸料として仙洞の院庁支配となっている。室町時代には畠山氏細川氏山名氏の諸氏が守護となり,戦国時代にいたって豊臣秀吉が寺院勢力を抑圧したため,情勢は一変した。江戸時代には御三家の一つ徳川氏の領国となり,明治4 (1871) 年和歌山県となった。

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百科事典マイペディアの解説

紀伊国【きいのくに】

旧国名。紀州とも。南海道の一国。今の和歌山全県と三重県南部。森林に富みかつては木国(きのくに)という。《延喜式》に上国,7郡。古代後期から中央の貴族・社寺の荘園が多く,中世にかけて熊野詣が流行。中世後期,地方豪族が割拠,根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆らは著名。近世には御三家の一つ紀伊徳川家(和歌山藩)が置かれ,その付家老水野(新宮3万5000石),安藤(田辺3万8800石)の両家があった。→高野山
→関連項目阿【て】河荘【かせ】田荘官省符荘近畿地方隅田荘鞆淵荘三重[県]和歌山[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

きいのくに【紀伊国】

現在の和歌山県全域と三重県の南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の和歌山市府中(ふちゅう)、国分寺は紀の川市におかれていた。平安時代には高野山(こうやさん)熊野(くまの)三山が栄えて神仏信仰の中心となった。鎌倉時代初期に守護がおかれ、佐原氏が就いたが、ほどなく熊野詣(もう)での行幸料国となり院庁の直轄地となった。1221年(承久(じょうきゅう)3)の承久の乱後に再び守護がおかれ、南北朝時代から室町時代には畠山(はたけやま)氏、山名氏、大内らが務めた。戦国時代は在地土豪や根来(ねごろ)寺などの寺社が割拠したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平定した。江戸時代には、1619年(元和(げんな)5)に徳川家康(とくがわいえやす)の10男頼宣(よりのぶ)が紀伊藩主となり、以後、御三家の一つ紀伊徳川家が支配することになった。1871年(明治4)の廃藩置県により和歌山県と度会(わたらい)県となり、1876年(明治9)に度会県は三重県に併合された。◇紀州(きしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

きいのくに【紀伊国】

旧国名。紀州。現在の和歌山県の全部と三重県の一部に当たる。
【古代】
 南海道に属する上国(《延喜式》)。本州の最南端,紀伊半島の西南部を占め,北は和泉・河内両国,東は大和・伊勢2国に境を接し,西は海をへだてて淡路・阿波・土佐3国に対し,南は大洋にのぞむ。東西約27里(100km),南北約30里(110km)。三方を海に囲まれ,長い海岸線を有するが,山がちで平地に乏しい。もと木国(きのくに)と表記したが,和銅年間に好字二字をあてて紀伊国と改めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紀伊国
きいのくに

現在の和歌山県全域と三重県南部を占める旧国名。紀州。北は和泉(いずみ)国・河内(かわち)国、東は大和(やまと)国・志摩国に接し、西から南・南東は海に囲まれる。古くは木国(きのくに)、紀国とも書かれ、713年(和銅6)に諸国、2字の好字を用いることになり、「紀伊国」となった。もとは熊野と紀伊の2国であったのが、大化改新のときに統合されて紀伊国となったとの説もある。伊都(いと)、那賀(なが)、名草(なぐさ)、海部(あま)、阿諦(あて)(のち在田(ありた))、日高、牟婁(むろ)の7郡に分けられた。南海道に属するが、伊都郡の一部は畿内(きない)に含まれていたこともあるようである。国府は現在の和歌山市府中(ふちゅう)付近ではなかったかと考えられる。国の等級は『延喜式(えんぎしき)』では上国で、綾(あや)などの生産技術は高く、塩も注目されていた。1107年(嘉承2)ごろには伊都・那賀郡の9割までが荘園(しょうえん)といわれ、誇張があるにしても、かなり進んでいたことがわかる。都と南海道とを結ぶ海道(南海道)は紀ノ川北岸に並行して走り、萩原(はぎはら)、名草、賀太(かた)駅が置かれた。国分寺は現在の紀の川市東国分にあったとみられている。
 中世に入り、鎌倉時代初めには守護が置かれ、和泉国守護を兼ねた佐原義連(よしつら)が就任した。その後、1207年(承元1)和泉・紀伊両国に後鳥羽院(ごとばいん)の熊野詣(もう)での駅家雑用を負担させたことによって、重要なことがない限り守護を置かないことにしたが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)後にはふたたび守護が置かれることとなった。守護所は現在の和歌山市府中か、その近辺ではないかとされている。地頭(じとう)の多くは東国出身の御家人(ごけにん)であったが、鎌倉時代末には在地の武士も地頭になった。中世武士団として有名なのは隅田(すだ)党と湯浅(ゆあさ)党である。隅田党は隅田庄(しょう)(橋本市付近)、官省符庄(橋本市北西部、旧高野口(こうやぐち)町付近)など、湯浅党は有田(ありだ)川下流の湯浅庄(湯浅町)を中心とした。熊野別当に率いられた熊野水軍も活躍した。高野山は平安時代以来、天皇や貴族さらに武士の信仰を集めた。熊野も地頭級の武士とともに、女人禁制でなかったので貴族・武家の女性も参り、「蟻(あり)の熊野詣で」とよばれるようになった。
 紀州の戦国時代の特色は、雑賀衆(さいかしゅう)・根来衆(ねごろしゅう)など有力な在地勢力がありながら戦国大名が生まれなかったことである。それは、おのおのが宗教が異なり、守護の内紛などがあったからである。豊臣(とよとみ)秀吉の天下統一に反対した根来寺(岩出(いわで)市)は火攻めされ、太田城(和歌山市)は水攻めで敗れた。1585年(天正13)4月和歌山城の築城が始められ、太閤(たいこう)検地は90年の熊野地方、91年の高野山寺領をもって終わった。1600年(慶長5)浅野幸長(よしなが)が入国し、1619年(元和5)安芸(あき)国に転封となったが、その後に徳川家康の第10子頼宣(よりのぶ)が55万5000石の紀伊藩主となってから、徳川御三家の一つとなった。高野山は秀吉に全面降伏し、全寺領を没収されたかわりに2万1000石を与えられ、近世大名のように寺領を支配した。紀伊藩の特産物は紀州ミカン、湯浅醤油(しょうゆ)、粉河酢(こかわす)、黒江漆器などが有名である。近世には高野山、熊野ともに庶民が参詣(さんけい)の中心となった。1869年(明治2)に津田出(いずる)が藩政改革を実施し、新政府に先駆けて徴兵制の西洋式軍隊をつくった。同年2月に版籍奉還を奏上、6月に和歌山・田辺・新宮(しんぐう)の3藩となり、1871年7月に和歌山・田辺・新宮県を設置、同年11月和歌山県に統一した。近代に入り紀州綿ネルが特産となる。[安藤精一]

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精選版 日本国語大辞典の解説

きいのくに【紀伊国】

端唄(はうた)、歌沢。明和年間(一七六四‐七二)の作と推定される。「神おろし」の祭文(さいもん)の一節を少し改めた歌詞から始め、江戸と紀州の稲荷神社の名を連ねて、狐の嫁入りをうたったもの。作詞者は紀州新宮の藩士関匡と玉松千年の二人で、それを同藩の川上不白が校閲した。

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