紀伊国(読み)キイノクニ

デジタル大辞泉 「紀伊国」の意味・読み・例文・類語

きい‐の‐くに【紀伊国】

紀伊

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精選版 日本国語大辞典 「紀伊国」の意味・読み・例文・類語

きいのくに【紀伊国】

  1. 端唄(はうた)、歌沢。明和年間(一七六四‐七二)の作と推定される。「神おろし」の祭文(さいもん)の一節を少し改めた歌詞から始め、江戸と紀州の稲荷神社の名を連ねて、狐の嫁入りをうたったもの。作詞者は紀州新宮の藩士関匡と玉松千年の二人で、それを同藩の川上不白が校閲した。

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日本歴史地名大系 「紀伊国」の解説

紀伊国
きいのくに

北は和泉国・河内国に接し、東は大和国。その大和国の南側を囲むように紀伊国は東に延び志摩国に接する。西から南および南東側は紀伊水道・太平洋・熊野灘の海に囲まれる。古くは「木国」「紀国」(古事記)とも書かれた。山地が多く森林の茂った様子から名付けられたといい、契沖の「和字正濫抄」は「きいなれどもきとのみよむを習ひとす、五十猛神より八十木種を天下にまきほどこしたまへり、此神のまします国なる故に木国といふ」と記す。和銅六年(七一三)諸国に郡・郷に二字の好字を用いることと「風土記」の撰を命じた時より「紀伊」となり、「日本書紀」など国史の記述もこれに従ったという。

古代

〔国の成立と国勢〕

紀伊国がもと二国に分れていたらしいことが「国造本紀」にみえる。すなわち「橿原朝御世、神皇産霊命五世孫天道根命定賜国造」と神武天皇の時に天道根命を紀伊国造とし、また「志賀高穴穂朝御世、饒速日命五世孫大阿斗足尼定賜国造」と成務天皇の時に大阿斗足尼を熊野国造としたとの記事である。このことから、この時、紀伊国と熊野国の二国であったとの解釈もなされている。この二国は大化改新の時、統合され紀伊国となったという。しかしこの二国説は伝説とみる向きが強い。

大化改新後、律令制度の整えられるなかで、紀伊国は伊都いと那賀なが名草なくさ海部あま阿諦あて(のちに在田)・日高・牟婁むろの七郡に分けられた。また紀伊国は七道のうち南海道に属するが、その一部は当初畿内に含まれていたようで、「日本書紀」大化二年(六四六)条の改新の詔に「凡そ畿内は(中略)南は紀伊の兄山より以来」とみえる。国府の置かれた地は、養老五年(七二一)から天平九年(七三七)の間に成立したとされる「律書残篇」に「紀伊国郡七・郷三十七・去京行程三日」とみえ、「和名抄」東急本に「紀伊国国府在名草郡」とある。国府跡は現和歌山市府中ふちゆう付近に比定されている。各郡に成立した郷は「和名抄」高山寺本によると次のとおりである。

伊都郡 賀茂かも村主すぐり・指いぶり桑原くわはら

那賀郡 石手・橋門はしと・那賀・荒川あらかわ山埼やまさき埴埼はさき

名草郡 大屋おおや直川のうがわそのべ大田おおた大宅おおやけ忌部いんべ・誰戸・

断金だんごん野応のお津摩つま国県くにかかす有真ありま・大屋・荒賀あらか

大野おおの朝来あつそ

海部郡 賀太かだ浜中はまなか

在田ありだ郡 吉備きび温笠ゆかさ英多あた奈郷なごう

日高郡 財部たから清水しみず内原うちはら石渕いわぶち南部みなべ

牟婁郡 岡田おかだ・牟婁・栗栖くるす三前みさき

「和名抄」東急本の郷名は、これに伊都郡に神戸、那賀郡に神戸、名草郡に駅家・神戸・しま神戸・日前ひのくま神戸・伊太いだ杵曾きそ・神戸・須佐すさ神戸、海部郡に全戸・家、在田郡に須佐、日高郡に全戸、牟婁郡に神戸が加わるが、伊太・杵曾・神戸は「伊太杵曾神戸」とされる。


紀伊国
きいのくに

「古事記」に「木国きのくに」「紀国」と記されるが、「紀伊続風土記」は国名を樹木繁茂の意としている。和銅六年(七一三)の好字令により「紀伊国」となった。紀伊国のうち現三重県に属するのは、熊野川以東、北山きたやま川以南の牟婁むろ郡東部の地であるが、現北牟婁きたむろ郡・尾鷲おわせ市域は古くは志摩国に属した。以下現三重県域に関することを中心に記す。

「日本書紀」(神代)の一書に「伊奘冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬ありま村に葬りまつる」とある。この有馬村は現熊野市有馬町にあてられ、同地には伊奘冉尊を祀る花窟はなのいわや神社がある。ここに熊野の名もみえるが、「国造本紀」は神武天皇のとき天道根命を紀伊国造とし、成務天皇のとき大阿斗足尼を熊野国造としたことを記す。「紀伊続風土記」は「熊野の国は今の牟婁郡奥熊野の地なり、大化の制牟婁に合せて一郡とし、紀伊に属す」としている。大化(六四五―六五〇)まで熊野国が紀伊国と併存したか否かは明らかではないが、熊野は他にも「熊野の神邑」(日本書紀)、「熊野村」(古事記)、「紀伊国牟婁郡熊野村」(日本霊異記)などと記される。「日本書紀」神武天皇即位前紀にみえる「熊野の荒坂津あらさかのつ亦の名は丹敷浦」の地は、現熊野市二木島にぎしま町とも現度会わたらい紀勢きせいにしきともいわれている。熊野は三山(本宮・新宮・那智の三社、いずれも現和歌山県)を中心とする聖地であり、特異な文化圏を形成し、平安時代後期から熊野詣が盛んになると伊勢から南下する熊野街道(伊勢路)が利用された。なお「紀伊続風土記」は、二木島を流れるあい川で伊勢大神宮と熊野権現が会ったという伝えを記しているが、この川が古代の紀伊と志摩の国境とされたという説がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「紀伊国」の意味・わかりやすい解説

紀伊国 (きいのくに)

旧国名。紀州。現在の和歌山県の全部と三重県の一部に当たる。

南海道に属する上国(《延喜式》)。本州の最南端,紀伊半島の西南部を占め,北は和泉・河内両国,東は大和・伊勢2国に境を接し,西は海をへだてて淡路・阿波・土佐3国に対し,南は大洋にのぞむ。東西約27里(100km),南北約30里(110km)。三方を海に囲まれ,長い海岸線を有するが,山がちで平地に乏しい。もと木国(きのくに)と表記したが,和銅年間に好字二字をあてて紀伊国と改めた。古来,良材を産し,素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子五十猛命(いたけるのみこと)が韓(から)より木種をもたらしこの国に播種したという《日本書紀》一書の所伝や,宮殿造営のための採材の忌部(いんべ)が住んだという《古語拾遺》の説は,木国の名の由来を物語るものである。その他記紀の伝える日前神の創祀神話,神武天皇の名草戸畔・丹敷戸畔の討伐や熊野上陸に関する説話などは,この国と大和政権との古い関係をうかがわせる。国造は紀伊・熊野の両国造があり,それぞれ紀直氏,熊野直氏を任じた。とくに紀伊国造(きのくにのみやつこ)は日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮を奉斎し,出雲国造と並んで長くその地位を保った。大化改新後,令制の施行とともに南海道に編入され,伊都(いと),那賀,名草(なくさ),海部(あま),在田(ありだ),日高(ひだか),牟婁(むろ)の7郡53郷を管した。国府を名草郡(現,和歌山市府中)に置き,南海道の官道に沿って萩原,名草,賀太の3駅を設けたが,のち萩原,賀太2駅となった。管田7198町余。調,庸,中男(ちゆうなん)作物,交易雑物として米,絹,糸,綿,ベニバナ,ゴマ油,大豆,小豆,塩および豊富な海産物を貢進した。式内社31座のうち,13座が名神大社であった(《延喜式》《和名抄》)。古代,紀ノ川流域に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ),粉河寺(こかわでら)等が開創され,南部の熊野大社とともに貴賤の信仰を集め,平安中期以降は院や摂関家による高野山,熊野参詣がさかんに行われた。同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。
執筆者:

院政期になると,上皇・女院および貴族による熊野三山あるいは高野山への参詣が,前代とは比較にならないほど盛んになった。とくに上皇の熊野参詣は回数が多く,後白河上皇は34回にも及び,後鳥羽上皇は平均10ヵ月に1度という頻度である。1090年(寛治4)の白河上皇の最初の参詣に園城寺の増誉が先達をつとめ,その法系が代々熊野山検校に補任されたため,険阻な中辺路(なかへち)を通って本宮,新宮,那智の三山をめぐるルート(京都から往復20日~1ヵ月の行程)がこれ以降公的なものとされて一般化した。一方,上皇や貴族の高野参詣は,熊野詣に比して回数が少ないが,仁和寺の覚法法親王のごとく,一度登山すると長期にわたって参籠を続けた人物もあった。このような権貴による熊野・高野参詣の盛行にともなって,熊野では三山を統轄する検校-別当の組織が整えられ,高野山では壇上伽藍の整備や多くの子院の建立が進められ,いずれも中世寺社権門として不動の地位を確立した。院政期の高野山においてめざましい活躍をしたのが覚鑁(かくばん)である。覚鑁は真言密教を浄土教的に解釈する教義をうちたて,鳥羽上皇の絶大な帰依をえて山内に伝法院(のち大伝法院)を建立し,ついで金剛峯寺座主を兼帯した。ところが東寺からの独立を策したため,旧守派の衆徒の反発をかい,両派の激しい抗争の末,根来に下山した。これが後の新義真言宗根来寺(ねごろでら)の起源であるが,覚鑁と行動をともにした衆徒の多くはまもなく帰山し,その後も断続的に金剛峯寺衆徒との抗争を繰り返しながら,大局的には高野山の発展に大きく寄与している。

1107年(嘉承2)の在庁官人の主張によれば,当時紀伊国の8~9割が荘園化していたという。しかしこれは誇張であって,高野山領官省符荘(かんしようふしよう)などのようにすでに中世荘園として確立していた荘園も若干あるが,全体としては免田の集積にすぎない荘園が当時の主流であった。紀伊国で荘園制が確立するのは鳥羽院政期である。すなわち,大伝法院・密厳院領の石手・岡田・弘田・山前・山東・相賀(おうが)(相賀荘)の6荘および鳥羽院領荒川荘が成立した1130年前後を画期として,以後12世紀半ばころまでにとくに紀北地域に多数の荘園が成立し,旧来の免田系荘園も本格的な中世荘園に発展した。院政期~鎌倉初期の高野山領荘園は,官省符荘,荒川荘,名手(なて)荘および六ヶ七郷(天野社領),大伝法院領系の6荘などであって,必ずしも多くはない。このほかには石清水八幡宮領の隅田(すだ)(隅田荘)・鞆淵(ともぶち)(鞆淵荘)・野上・衣奈・薗財荘,神護寺領の桛田(かせだ)(桛田荘)・河上荘,粉河寺領の粉河・栗栖荘,摂関家領の田仲(田仲荘)・吉仲・賀太・保田・三栖荘など,領家を異にする多様な荘園が分布していた。なお紀ノ川下流域の名草郡には,河南に一宮である日前国懸神社領が広範に存在し,国衙が所在する河北にはのちに守護領化する小規模な荘園が多くみられるが,これらは,いずれも不輸不入権をもっていない荘公両属の性格を有していたと考えられる。

平氏政権期には,中央政界と深いつながりをもった武士団が台頭した。その代表的なものが湯浅宗重と熊野別当湛快で,彼らは平治の乱の際,熊野詣の途中にあった平清盛を助けて乱を勝利にみちびき,平氏の有力な家人となった。ところが源平内乱の末期には,宗重は一族の行慈が文覚の弟子であった関係から源氏に寝返り,湛快の子湛増もまた熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。鎌倉幕府が紀伊国に設置した守護として,はじめ豊島有経の名がみえるが,その後三浦氏の一族,佐原義連に帰している。義連死後の1207年(承元1)には,紀伊・和泉両国の守護は,検断権の行使にともなう収益を上皇の熊野詣の費用にあてるという名目で停廃された。承久の乱後,守護は復活され,三浦義村ついで佐原家連が補任されている。しかし47年(宝治1)の宝治合戦によって三浦一族が滅亡して以後は,鎌倉末期まで重時流北条氏の襲職となった。彼らのうちには六波羅探題を兼務するものも多く,その被官となった隅田氏のように,鎌倉末期には六波羅検断にまでなった武士がある。なお鎌倉時代の守護所は国衙付近にあり,これをとりまくように分布する田井・平田・和佐・栗栖氏などの中小武士は,もともと在庁官人であって,この時期には西国御家人として守護の直属的武力を構成していた。

 紀伊国の地頭は湯浅一族を除くと,他はすべて東国出身の武士が補任されている。湯浅一族のみが湯浅・保田・阿氐河(あてがわ)荘などの地頭に補されたのは,行慈・文覚と幕府との特別な関係によるものと思われる。鎌倉時代の湯浅党は,在田郡に蟠踞した本流のほか,婚姻関係によって多くの中小武士を包摂しており,その勢力は紀伊国の各地におよんでいる。鎌倉後期には,西国御家人のなかにもみずから地頭を称するものがあらわれ,高野山領荒川荘を中心に悪党の蜂起もみられた。一方,高野山は13世紀初めより《御手印縁起》の四至内の地を〈旧領〉と称して寺領の拡張を策し,承久の乱後に神野真国(こうのまくに)荘を,鎌倉末期には阿氐河荘を寺領に編入した。なお紀伊国の高野山領荘園には,南部(みなべ)荘などの例外を除き,地頭はおかれなかった。

南北朝内乱の初期は北朝方が断然優勢で,とくに守護畠山国清の活躍がめざましい。ところが14世紀中葉以降,北朝方の分裂に乗じて南朝方が息をふき返し,正平の年号が十数年にわたって続く。この間,国清の弟義深による大規模な南朝掃討作戦も企てられたが,一時的な制圧にとどまった。このように,内乱期の紀伊国は湯浅一族の多くが南朝方についたように,中央で敗退した南朝方が息をふき返す拠点であり,山名義理が守護となった1378年(天授4・永和4)以降,北朝方がほぼ一掃されるにいたった。なお,このころより守護所は名草郡大野に移されたらしい。山名氏は91年(元中8・明徳2)将軍足利義満の挑発によって滅び(明徳の乱),ついで守護となった大内義弘も一国の統治機構を整えつつあったが,99年(応永6)義満に攻撃されて敗死した(応永の乱)。その後守護になったのが畠山基国で,これ以降紀伊国守護は畠山氏の襲職となって一応安定する。ただし紀南では湯川氏や玉置氏の台頭があり,彼らは幕府奉公衆としてしばしば独自の動きをした。

 鎌倉時代後期に高野山から独立した根来寺は,いち早く北朝方につき,幕府と関係の深い醍醐寺の末寺となってしだいに発展した。これに対し高野山は時の権力に追随するあいまいな態度をとり続けたが,建武政権成立直後に,後醍醐天皇の〈元弘の勅裁〉によって《御手印縁起》の四至内を一円的に領有する権利が認められた。その結果,隅田南・相賀南・志富田・鞆淵などの諸荘が高野寺領となり,退転しつつあった遠隔地の荘園を整理し,寺領を膝下に集中することに成功した。ついで内乱が終息した14世紀末~15世紀中葉に,新しい寺領や官省符・荒川・名手荘などの重要な荘園に大がかりな検注を実施し,寺領の再建につとめている。なおこの時期には惣(惣村)の形成が各地でみられ,鞆淵荘,相賀荘柏原村,粉河荘東村などにその実態を示す好史料が残されている。

永享年間(1429-41)には,高野山で学侶と行人の抗争が起こり,守護畠山氏の勢力にもかげりがみえてくる。1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。50年間にもおよぶ畠山氏の抗争は16世紀初頭に終息するが,この間に勢力をたくわえてきたのが根来衆と雑賀(さいか)衆である。根来寺の急速な発展を支えたのは,紀北・泉南・南河内の新興の土豪地侍層で,彼らは山内に子院をつぎつぎと建立し,高利貸や荘園の代官請などを通じて,紀北・泉州地域の荘園を蚕食した。一方,紀ノ川下流域の雑賀地方では,旧流路の開発によって土橋,鈴木,岡氏などの土豪地侍層が台頭し,雑賀を中心に周辺地域をまきこんだ雑賀五組の組織が形成された。雑賀衆には一向宗に帰依したものが多く,石山本願寺一揆には本願寺の最大の後方基地の役割をはたした。なお根来衆と雑賀衆はいち早く鉄砲を導入した強力な戦闘集団としても著名である。かくて戦国時代の紀伊国には,畠山氏の分裂もあって,一国を統率するだけの有力者が台頭せず,新旧の地域的諸集団が同盟と抗争をくり返す状態が続き,国内の統一は織田信長や豊臣秀吉の紀州攻めを待たねばならなかった。
執筆者:

近世的な統一勢力の動きは織田信長の雑賀攻めころからみられる。信長は石山本願寺を征服しようとしたが,その背後にある紀州雑賀の勢力が強大であるために,1577年(天正5)2月に数万の兵で紀州攻撃をした。その後石山本願寺を明け渡した顕如は紀州に逃れた。信長は高野山も支配下に入れようとした。これに対し高野山は3万の軍勢を集め,一方では大祈禱を続けたが,本能寺の変で信長が殺されたため,高野山は安全であった。

 豊臣秀吉は紀州攻略にあたって,当時の最新兵器である種子島銃を堺商人よりも早く種子島から入手し,その製造もし,有力な鉄砲集団を持つ根来と戦わずに征服しようとした。根来の広大な領地を全部秀吉に出し,その支配下に入るならば,寺領2万石を与えるという条件をしめしたという。しかし軍事力を過信した根来は降服条件を拒否し,85年3月に秀吉の火攻めによって敗れ去ったが,当時のようすは遺跡などからうかがわれる。ついで秀吉は雑賀勢のたてこもる太田城を攻撃し,かなりの抵抗をうけたが水攻めで落城させた。このとき城内にあった指導者53名の首を大坂にはこび阿倍野でさらし首とし,天下統一事業に反対する者があるならば征服するぞと,その権力を誇示した。女性23名は太田城で磔にした。ついで,和歌山城の築造を始めた。経済的基盤の確立と支配の強化のために,有名な太閤検地を実施した。85年8月に小堀新助を紀州に送って検地を実施しようとしたが,一度にはできず,87年9月の日高郡江川村,90年11月の牟婁郡下尾井村の検地帳がのこっていることから数年かかったとみることができる。高野山は戦わずして降伏し,2万1000石の領地のみを認められた。高野山寺領は91年に検地が行われた。熊野参詣は江戸時代に入って衰えたが,熊野三山では名目金(みようもくきん)と呼ばれる貸付金による経営が行われた。

 ルイス・フロイスによれば1585年ころの紀州には4か5の宗派があり,おのおのが共和国で,その例として高野山・粉河寺・根来寺や雑賀地方をあげている。さらに雑賀地方の農民はヨーロッパの富裕な農民と同様であるとしているのは注目される。中央統一勢力に抵抗をつづけた紀州地方も,1600年(慶長5)の浅野幸長(よしなが)の入国と翌年の一国検地によって幕藩体制に組みこまれた。ついで,19年(元和5)浅野が安芸国に転封の後に徳川家康の子徳川頼宣が駿河国から紀伊に入り,伊勢・大和の一部をあわせて55万5000石を領し,御三家の一つとなった(紀州藩)。頼宣は家康からの付家老の安藤直次を3万8000石で田辺に,水野重央を3万5000石で新宮に配置し,支藩的存在をなした。

産業のおもなものとして紀州蜜柑があるが,紀伊国屋文左衛門が荒天をついて江戸に運んだというのは多分に伝説的である。紀州蜜柑は1529年(享禄2)に三条実香が紀州から京都へのみやげに持参していることから,すでにこのころには栽培されていたことが明らかである。江戸には1634年(寛永11)に送り,水菓子問屋で売られ,風味,色,形ともに他国産よりもすぐれて好評を得た。最盛期には50万籠にも達したという。湯浅しょうゆも日本でもっとも古い起源をもつといわれ,江戸時代は紀州藩の専売制度である御仕入方商品として大坂等へ販売した。近世中期の享保年間には広村の浜口儀兵衛らが下総の銚子にでかけてしょうゆ生産を始め,今日の銚子のしょうゆ生産の繁栄の端緒を作った。粉河酢も江戸時代初期から栄え,江戸その他各地に販売し,名声を得た。黒江漆器も江戸時代の初期からすでに有名で,幕末期には全国から黒江に漆器商人が集まり,賃稼職人も約2000人いるほどに栄えた。高野紙は高野山麓の高野紙十郷が恵美須講を結んで自主統制をしながら生産した。備長(びんちよう)炭は姥目樫を1000℃以上の高温で焼いて生産し,たたけば金属音がする上質の炭で,江戸・大坂等でも焼物や料理などに重宝された。漁業は古くから発展し関東その他各地にも出漁し,進んだ漁法を伝えた。捕鯨業は日本でもっとも古い歴史をもつものの一つである。近世では1606年(慶長11)以降の銛突(もりつき)捕鯨法と77年(延宝5)以降の捕網鯨法の考案が注目され,捕鯨業は急速に発展した。

1607年の宣教師ムニョスの報告によると,和歌山はひじょうに美しく,2万近くの住民がおり,城は珍奇を極めたもので,この町はあらゆる物資に恵まれ,人々は親切であるという。彼はつぎの理由から山城国を除くと紀伊国は日本で最良の国であるという。すなわち,高い山の間に狭い入口が一つあるだけで征服することができないこと,土地が肥沃で数多くの港があり,首都に近く物資が豊富で家畜を飼育するに適し,気候温和で空は美しい点をあげている。和歌山以外に田辺新宮は実質的には安藤,水野の城下町であったが,一国一城の原則から,巡検使には城を館と報告させた。文化の面では農書《地方(じかた)の聞書(才蔵記)》を著した大畑才蔵や麻酔手術を実施した華岡青洲が著名である。

1868年(明治1)田辺・新宮両藩が立藩し,71年廃藩置県をへて,熊野川以東,北山川以南が度会(わたらい)県(76年三重県に統合)に編入され,田辺・新宮県と,五条県に属していた旧高野山領が和歌山県に統合されて現在の県域が定まった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀伊国」の意味・わかりやすい解説

紀伊国
きいのくに

現在の和歌山県全域と三重県南部を占める旧国名。紀州。北は和泉(いずみ)国・河内(かわち)国、東は大和(やまと)国・志摩国に接し、西から南・南東は海に囲まれる。古くは木国(きのくに)、紀国とも書かれ、713年(和銅6)に諸国、2字の好字を用いることになり、「紀伊国」となった。もとは熊野と紀伊の2国であったのが、大化改新のときに統合されて紀伊国となったとの説もある。伊都(いと)、那賀(なが)、名草(なぐさ)、海部(あま)、阿諦(あて)(のち在田(ありた))、日高、牟婁(むろ)の7郡に分けられた。南海道に属するが、伊都郡の一部は畿内(きない)に含まれていたこともあるようである。国府は現在の和歌山市府中(ふちゅう)付近ではなかったかと考えられる。国の等級は『延喜式(えんぎしき)』では上国で、綾(あや)などの生産技術は高く、塩も注目されていた。1107年(嘉承2)ごろには伊都・那賀郡の9割までが荘園(しょうえん)といわれ、誇張があるにしても、かなり進んでいたことがわかる。都と南海道とを結ぶ海道(南海道)は紀ノ川北岸に並行して走り、萩原(はぎはら)、名草、賀太(かた)駅が置かれた。国分寺は現在の紀の川市東国分にあったとみられている。

 中世に入り、鎌倉時代初めには守護が置かれ、和泉国守護を兼ねた佐原義連(よしつら)が就任した。その後、1207年(承元1)和泉・紀伊両国に後鳥羽院(ごとばいん)の熊野詣(もう)での駅家雑用を負担させたことによって、重要なことがない限り守護を置かないことにしたが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)後にはふたたび守護が置かれることとなった。守護所は現在の和歌山市府中か、その近辺ではないかとされている。地頭(じとう)の多くは東国出身の御家人(ごけにん)であったが、鎌倉時代末には在地の武士も地頭になった。中世武士団として有名なのは隅田(すだ)党と湯浅(ゆあさ)党である。隅田党は隅田庄(しょう)(橋本市付近)、官省符庄(橋本市北西部、旧高野口(こうやぐち)町付近)など、湯浅党は有田(ありだ)川下流の湯浅庄(湯浅町)を中心とした。熊野別当に率いられた熊野水軍も活躍した。高野山は平安時代以来、天皇や貴族さらに武士の信仰を集めた。熊野も地頭級の武士とともに、女人禁制でなかったので貴族・武家の女性も参り、「蟻(あり)の熊野詣で」とよばれるようになった。

 紀州の戦国時代の特色は、雑賀衆(さいかしゅう)・根来衆(ねごろしゅう)など有力な在地勢力がありながら戦国大名が生まれなかったことである。それは、おのおのが宗教が異なり、守護の内紛などがあったからである。豊臣(とよとみ)秀吉の天下統一に反対した根来寺(岩出(いわで)市)は火攻めされ、太田城(和歌山市)は水攻めで敗れた。1585年(天正13)4月和歌山城の築城が始められ、太閤(たいこう)検地は90年の熊野地方、91年の高野山寺領をもって終わった。1600年(慶長5)浅野幸長(よしなが)が入国し、1619年(元和5)安芸(あき)国に転封となったが、その後に徳川家康の第10子頼宣(よりのぶ)が55万5000石の紀伊藩主となってから、徳川御三家の一つとなった。高野山は秀吉に全面降伏し、全寺領を没収されたかわりに2万1000石を与えられ、近世大名のように寺領を支配した。紀伊藩の特産物は紀州ミカン、湯浅醤油(しょうゆ)、粉河酢(こかわす)、黒江漆器などが有名である。近世には高野山、熊野ともに庶民が参詣(さんけい)の中心となった。1869年(明治2)に津田出(いずる)が藩政改革を実施し、新政府に先駆けて徴兵制の西洋式軍隊をつくった。同年2月に版籍奉還を奏上、6月に和歌山・田辺・新宮(しんぐう)の3藩となり、1871年7月に和歌山・田辺・新宮県を設置、同年11月和歌山県に統一した。近代に入り紀州綿ネルが特産となる。

[安藤精一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀伊国」の意味・わかりやすい解説

紀伊国
きいのくに

現在の和歌山県全域と三重県南部の尾鷲市,熊野市および南牟婁郡北牟婁郡南海道の一国。面積約 5700km2。上国。もと紀伊国造と熊野国造が置かれたが,紀伊国造は紀直 (きのあたえ) が,ヒノクマノカミ (日前神) ,クニカカスノカミ (国懸神) の2神をまつる神社を中心として,現在の和歌山市一帯に勢力をふるい,律令時代にも出雲国造とともに新国造として朝廷から遇されていた。これに対し熊野国造については不明な点が多いが,熊野地方は「記紀」の神武天皇の伝承にもみえ,信仰のうえでも特別の地域とみられていた。国府は和歌山市,国分寺は紀の川市にあった。『延喜式』では紀伊国を伊都郡,那賀郡,名草郡,海部郡,在田郡,日高郡,牟婁郡の7郡としており,『和名抄』では郷 56,田 7198町としている。平安時代末期には牟婁郡の熊野三山がにわかに上下の信仰を集め,のちの修験道の一大中心地となったところである。これに対し仏寺は,北部の紀ノ川上流の高野山金剛峯寺,下流の粉河寺根来寺などがあり,軍事的な勢力をも有した。これら社寺の勢力が強大であったため,武家勢力は成長しなかった。鎌倉時代,佐原義連が守護となったが,まもなく熊野御幸料として仙洞の院庁支配となっている。室町時代には畠山氏細川氏山名氏の諸氏が守護となり,戦国時代にいたって豊臣秀吉が寺院勢力を抑圧したため,情勢は一変した。江戸時代には御三家の一つ徳川氏の領国となり,明治4 (1871) 年和歌山県となった。

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百科事典マイペディア 「紀伊国」の意味・わかりやすい解説

紀伊国【きいのくに】

旧国名。紀州とも。南海道の一国。今の和歌山全県と三重県南部。森林に富みかつては木国(きのくに)という。《延喜式》に上国,7郡。古代後期から中央の貴族・社寺の荘園が多く,中世にかけて熊野詣が流行。中世後期,地方豪族が割拠,根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆らは著名。近世には御三家の一つ紀伊徳川家(和歌山藩)が置かれ,その付家老水野(新宮3万5000石),安藤(田辺3万8800石)の両家があった。→高野山
→関連項目阿【て】河荘【かせ】田荘官省符荘近畿地方隅田荘鞆淵荘三重[県]和歌山[県]

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藩名・旧国名がわかる事典 「紀伊国」の解説

きいのくに【紀伊国】

現在の和歌山県全域と三重県の南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の和歌山市府中(ふちゅう)、国分寺は紀の川市におかれていた。平安時代には高野山(こうやさん)熊野(くまの)三山が栄えて神仏信仰の中心となった。鎌倉時代初期に守護がおかれ、佐原氏が就いたが、ほどなく熊野詣(もう)での行幸料国となり院庁の直轄地となった。1221年(承久(じょうきゅう)3)の承久の乱後に再び守護がおかれ、南北朝時代から室町時代には畠山(はたけやま)氏、山名氏、大内氏らが務めた。戦国時代は在地土豪や根来(ねごろ)寺などの寺社が割拠したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平定した。江戸時代には、1619年(元和(げんな)5)に徳川家康(とくがわいえやす)の10男頼宣(よりのぶ)が紀伊藩主となり、以後、御三家の一つ紀伊徳川家が支配することになった。1871年(明治4)の廃藩置県により和歌山県と度会(わたらい)県となり、1876年(明治9)に度会県は三重県に併合された。◇紀州(きしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀伊国」の解説

紀伊国
きいのくに

南海道の国。現在の和歌山県全域と三重県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では伊都(いと)・那賀・名草(なくさ)・海部(あま)・在田(ありだ)・日高・牟婁(むろ)の7郡からなる。もとは山がちな地勢から木国とよばれたが,のち好字を用いることで改名した。大化前代には豪族として,北部に紀伊国造,南部に熊野国造がいた。国府は名草郡(現,和歌山市),国分寺は那賀郡(現,紀の川市)におかれた。一宮は日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮(現,和歌山市)。「和名抄」所載田数は7198町余。「延喜式」では調・中男作物として塩・各種海産物・紅花・胡麻油など。平安時代以降,高野山が多数の荘園を領有して勢力を誇り,熊野大社も貴族らの信仰をえて栄えた。守護は鎌倉初期には和泉国守護の兼任であったり,おかれなかったりしたが,以後も有力大名となる家はでなかった。江戸時代は御三家の一つ和歌山藩領として推移。5代藩主徳川吉宗は8代将軍となる。1869年(明治2)版籍奉還し,和歌山・田辺・新宮の3藩から,71年の廃藩置県の後,和歌山県となる。

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