コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

豊後国 ぶんごのくに

6件 の用語解説(豊後国の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

豊後国
ぶんごのくに

現在の大分県の大部分の地。西海道の一国。上国。古くは豊前国と合せて「豊国 (とよのくに) 」と称したことが『豊後国風土記『古事記』にみえる。『豊後国風土記』には8郡,40郷とある。国府は大分市古国府

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ぶんご‐の‐くに【豊後国】

豊後

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

豊後国【ぶんごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の大分県の中・南部。もと豊(とよ)の国。7世紀末ころに豊前・豊後2国とし,《延喜式》に上国,8郡。国府は現在の大分市にあったと推定される。
→関連項目大分[県]大野荘(大分)九州地方田渋荘府内

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

藩名・旧国名がわかる事典の解説

ぶんごのくに【豊後国】

現在の大分県の大部分を占めた旧国名。古く豊(とよ)国から豊前(ぶぜん)国(福岡県東部、大分県北部)と豊後国に分かれた。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の大分市におかれていた。鎌倉時代関東御分国となり、12世紀中ごろに大友氏守護として入部、南北朝時代から戦国時代を通じて領有。とくに大友宗麟(そうりん)キリスト教の布教や南蛮貿易に意欲的だった。江戸時代には幕府直轄領や多数の小藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により大分県となった。◇豊前国と合わせて豊州(ほうしゅう)ともいう。

出典|講談社
(C)Kodansha 2011.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ぶんごのくに【豊後国】

旧国名。現在の大分県の大半部を占める。
【古代】
 西海道に属する上国(《延喜式》)。史料的初見は《続日本紀》文武2年(698)9月乙酉の条の〈豊後国真朱〉を献ずるとする記述である。《豊後国風土記》は〈本(もと)豊前国と合せて一つの国たりき……因(よ)りて豊国(とよのくに)といふ,後両つの国に分ちて豊後国〉と称したという。しかし最近の研究(《大分県史》)によれば,本来,前後に分けるべき豊国はなかったが,庚寅年籍(こういんねんじやく)作成を契機として690‐692年(持統4‐6)ごろ,九州各国の前後国が成立しているので,豊前・豊後両国もこのころ成立した可能性が強いという。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

豊後国
ぶんごのくに

現在の大分県の大部分を占める地域の旧国名。『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇2年(698)条に豊後国真朱(しんしゅ)を献ずとあるのが史料上の初見。古くは豊国(とよくに)があり、それが7世紀末に豊前(ぶぜん)・豊後に分かれたとするが不詳。『延喜式(えんぎしき)』(927成)では西海道(さいかいどう)にあり上国。郡は大分(おおいた)、国東(くにさき)、速見(はやみ)、海部(あまべ)、大野、直入(なおいり)、日田(ひた)、玖珠(くす)の8郡。国府は大分郡にあり、現在の大分市古国府(ふるごお)地区に比定されるが遺構は未確認。国分僧寺は大分市国分に所在するが、国分尼寺は未発見。豊後一宮(いちのみや)は由原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)(柞原八幡宮)、式内社(しきないしゃ)としては西寒多(ささむた)神社のほか5社。平安時代には国東郡富貴(蕗)(ふき)など宇佐神宮信仰と結び付いた六郷満山文化、臼杵(うすき)・大野川流域・国東など各地に磨崖(まがい)石仏を中心とする仏教文化が展開した。
 1185年(文治1)には関東御分国となるが、のち大友能直(よしなお)が守護となり、3代頼泰(よりやす)は、対蒙古(もうこ)外交を機に鎮西(ちんぜい)一方奉行(ぶぎょう)として豊後に下向、府中高国府(ふちゅうたかごお)(大分市)に守護所を設置。能直以来、庶子は在地の国人と養子縁組などをして土着する。南北朝内乱時には北朝方の拠点となる。この間に、大友氏は守護大名へと成長を遂げ、大内氏と並んで西国の有力守護大名となる。大友氏内部の家督争いのなかで国内も争乱状態となるが、18代親治(ちかはる)のころから戦国大名化し、19代義長は家内法ともいうべき「条々」を発し、家臣団統制・軍事警察の強化を行う。21代家督となった義鎮(よししげ)(大友宗麟(そうりん))は、九州6か国の守護を手中に収め、キリシタン大名として君臨する。豊後府中は南蛮貿易の拠点となり、育児院・病院・教会堂が建てられ、キリスト教布教の中心となり、直入郡朽網(くたみ)、大野郡野津院(のついん)・速見院・由布院(ゆふいん)など国内各地にもキリスト教徒が分布した。1578年(天正6)以来、島津氏との反目が続き、86、87年には薩摩(さつま)軍が侵入し、府中や宗麟の隠居城臼杵丹生島(うすきにゅうじま)城も焼き払われた。豊臣(とよとみ)秀吉の出馬により落着をみたが、22代大友義統(よしむね)(吉統)は、豊後一国のみを安堵(あんど)されることとなり、92年(文禄1)秀吉の命により朝鮮に出兵するが、咎(とが)ありとして翌93年除国され、豊後は太閤蔵入地(たいこうくらいりち)となる。93年秀吉は、山口宗永・宮部継潤(けいじゅん)を検地奉行として「五畿内(ごきない)同前」の検地を実施し、岡(竹田)に中川秀成を配するなど大名領と代官が配された蔵入地が置かれた。
 関ヶ原の戦い後、臼杵に稲葉貞通(さだみち)、佐伯に毛利高政、日出(ひじ)に木下延俊、森に来島(くるしま)(久留島)康親が入部した。杵築には1645年(正保2)に松平英親が、府内にはたび重なる領主交替を経て1658年(万治1)松平忠昭が入り、譜代(ふだい)大名領となった。1601年(慶長6)からは肥後熊本藩加藤清正(きよまさ)(のち細川氏)領が、1669年(寛文9)からは肥前島原藩松平忠房(一時期、戸田氏領となる)領が、1713年(正徳3)からは日向(ひゅうが)延岡(のべおか)藩牧野成央(なりなか)(のち内藤氏)領が成立し、七つの小藩と他国領が存在した。日田・玖珠郡を中心に置かれた幕府領は、一時期藩領となるが、1686年(貞享3)からは幕府領として維持され、日田に置かれた代官所(のち西国郡代役所、永山布政所ともいう)が九州一円の幕領支配の中心となり、豆田(まめだ)・隈(くま)両町を中心とする日田地方には広瀬淡窓(たんそう)を頂点とする日田文化が開花した。1811年(文化8)岡藩に勃発(ぼっぱつ)した一揆(いっき)の波は、同年末から12年初めにかけて豊後のほぼ全域から豊前にまで及び、「小藩分立」体制を揺るがした。1868年(慶応4)閏(うるう)4月、幕府領は日田県となり、71年7月の廃藩置県によって豊後には岡、臼杵、杵築、日出、府内、佐伯、森、日田の8県と島原・熊本県領が成立したが、同年11月に大分県に編入された。[豊田寛三]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

豊後国の関連キーワード大隅安積安房羽前佐渡播磨豊後陸前陸中エクリン腺 (eccrine gland)

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

豊後国の関連情報