朝日日本歴史人物事典 「涌井藤四郎」の解説
涌井藤四郎
生年:享保1(1716)
江戸中期の長岡藩領越後国(新潟県)新潟町打ちこわし(新潟明和騒動)の頭取。生年は一説に享保6(1721)年。名は英敏。藤四郎の家はもと越前の出で,宝永1(1704)年に佐渡から移住した新潟町本町通五の町に住む新興町人。明和5(1768)年9月,新潟町では藩の御用金賦課と町役人への不満,米価騰貴が原因で,町民らが御用金延納の嘆願書を新潟町奉行に提出しようとした。その直前,中心人物の藤四郎が投獄されたのをきっかけに打ちこわしが起きた。奉行所では藤四郎を釈放,一時新潟町の町政は彼を中心に民主的に運営された。11月以後,藩側は態勢を立て直すと藤四郎らを捕らえて長岡に護送,投獄し,町民の自治組織は壊滅した。藤四郎は同じく頭取だった岩船屋佐次兵衛と共に,打ち首獄門の判決が下り,新潟町中を引き回しの上処刑された。町のため一命を捧げたので,木内惣五郎になぞらえて涌井惣五郎とも呼ばれ,枠井大明神,南無惣五郎大菩薩と尊敬された。明治以後,追善興行や講談などで顕彰された。
(山田忠雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報