新潟町(読み)にいがたまち

日本歴史地名大系 「新潟町」の解説

新潟町
にいがたまち

信濃川河口左岸の湊町。古くは浜側の砂丘地帯にあったというが(「浜村新潟」とよぶ)、漸次河口の寄洲に移転(「島村新潟」とよぶ)、好条件に恵まれて「川湊にては日本第一」(橘南谿「東遊記」)と称される湊町に発展する。なお江戸時代の公称は「新潟浜村」であり、元禄・天保両郷帳には六〇八石二斗と高付される。

〔戦国期の新潟〕

天文二〇年(一五五一)の藤巻文書にみえる「三ケ津」には新潟も含まれると考えられているが、史料上の初見は永禄一一年(一五六八)一〇月二二日の上杉輝虎(謙信)書状(栗林文書)で、「昨廿一当津柏崎へ進馬候、(中略)廿七新潟を可打立候」とみえる。御館の乱後、論功行賞に不満をもった新発田重家は上杉景勝から離反、天正九年(一五八一)新潟津の沖の口運上を横領する(六月一日「竹俣慶綱書状」上杉家文書)。当時運上徴収権は竹俣氏のもので、すでにかなりの規模の湊であったと考えられる。重家は河口中洲に砦を構えて新潟を占拠町人人質に取ったという(越後治乱記)景勝側も築城し、木場きば(現西蒲原郡黒埼町)からは蓼沼氏・山吉氏の兵が幾度も新潟を攻撃、同一〇年景勝の重臣直江兼続は蓼沼氏に対し、重家討伐後は新潟代官とすることを約したりしている(蓼沼文書)。同一四年一〇月、重家側の新潟・沼垂ぬつたり両城は落城。山吉氏や三条城の甘糟氏に景勝から感状が与えられているが(上杉年譜)、この落城には沼垂では島垣宗兵衛・隼人佑、新潟では玉木屋大隅・若狭屋常安の功績があった。彼らはそれぞれ特権を与えられ、江戸時代、その子孫は町役人として町政に携わる。

〔堀直寄の施策〕

高田藩領時代の慶長一五年(一六一〇)九月、「にいかた町中」に宛てた伝馬定(新潟町会所文書)が出されている。元和二年(一六一六)長岡藩堀直寄領となり、同四年直寄の村上移封までの二年間に新潟は近世都市としての基礎が作られ、今日なお、町並にその名残をとどめている。入封の年一一月、直寄はまず湊と商業の発展をはかり、新潟諸役用捨之覚(同文書)を布達する。すなわち、沖の口船役・商人役・あへ物(四十物)役・むろ(室)役・てんびん荷付役・あさそ(麻苧)役・かぎ役・蔵役・節供酒手役の九種類の課税を免除し、「新潟家数をも取立、富貴仕候様、可致才覚者也」と指示した。営業税的なものが多く、とりわけ領主側にとっても重要な財源である沖の口船役を撤廃したのは英断で、湊繁栄のもととなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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