改訂新版 世界大百科事典 「享保改革」の意味・わかりやすい解説
享保改革 (きょうほうかいかく)
江戸時代中期,8代将軍徳川吉宗の在職中(1716-45)に行われた改革政治の総称。17世紀の終りごろから特産物を主軸に商品生産が発達,貨幣経済が浸透し,元禄以来の通貨の混乱と物価騰貴,領主経済とりわけ幕府財政の悪化,政治の行きづまりをもたらし,幕府は幕藩体制再建という課題を抱えていた。1716年(享保1)7代将軍家継が8歳で死去し,その継嗣に藩政改革に実績をもつ紀州藩主吉宗が迎えられた。吉宗は間部詮房(まなべあきふさ),新井白石らを退け,側用人政治を廃し,老中井上正岑,阿部正喬,土屋政直,久世重之,戸田忠真ら吉宗〈援立の臣〉の意を迎え,譜代を中心とする幕府の正統政治を尊重する姿勢をとり,紀州から連れてきた有馬氏倫,加納久通を御用取次として重用した。
改革の概要
吉宗の治世は30年に及ぶが,改革は3期に分けることができる。第1期(1716-22前半)は吉宗の将軍就任直後の〈援立の臣〉への遠慮から改革は積極化せず準備期といえるが,評定所の機構改革,正徳・享保金銀発行の通貨政策から正徳の治の継承・完結とみる説もある。第2期(1722後半-35)は吉宗が抜擢(ばつてき)した勝手掛老中水野忠之のもとで財政改革を中心に改革政治が本格化する時期で,将軍専制体制が制度化された。30年6月忠之が米価政策失敗の責任により退陣し中だるみとなる。第3期(1736-45)は36年(元文1)5月元文金銀新鋳という貨幣政策転換を画期とし,37年勝手掛老中松平乗邑(のりさと),勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)が登場し年貢増徴にあたった時期で,45年9月吉宗退隠,10月吉宗の内意もあり新将軍家重に乗邑が罷免されて終わる。
法制整備と文化・社会政策
幕府の行政・司法は主として慣習や不文律で行われてきたが,42年(寛保2)評定所が判例を集め修正増補し《公事方(くじかた)御定書》,44年(延享1)幕府法令を類別編集し《御触書寛保集成》を編纂,町奉行所では大岡忠相(ただすけ)らが関係法令を集め立法過程を含め《享保撰要類集》を作った。御触書集成,撰要類集はこれが例となって以後編纂が続けられた。1722年室鳩巣に命じて《六諭衍義(りくゆえんぎ)大意》を刊行,江戸府内の寺子屋の教科書として使用させた。吉宗は1720年に従来厳重であった漢訳洋書輸入制限を緩和,キリスト教義を説いたもの以外の輸入を許可し,青木昆陽,野呂元丈にオランダ語を学ばせ,蘭学興起の基礎を開いた。吉宗は実学を好み,朝鮮人参国産化を奨励,21年全国の人口調査を開始,実益ある意見を期待し目安箱を設置,翌年小川笙船の投書により小石川養生所を設け,困窮者・孤独者の治療に当たった。
行政機構の改革
1716年吉宗は鷹狩を復活,18年江戸近郊の鷹場を再編強化,代官配下の鳥見による幕領私領の統一的検察による支配体制補強を図った。1717年大岡忠相を町奉行に登用し22年関東地方(じかた)御用掛を兼任させた。19年相対済令(あいたいすましれい)を出し,金銀貸借・買掛訴訟を受理しないこととした。これは貨幣経済の発達,通貨混乱で訴訟が増加したことへの対応であったが,29年撤回された。1721年閏7月勘定所を公事・訴訟を受け持つ公事方(くじかた)と年貢・普請・出納・知行を受け持つ勝手方に分け,翌年5月水野忠之を勝手掛老中に任じ財政改革に着手した。それまで御殿詰,上方,関東方に分かれていた勘定所機構を改め,殿中勘定所は御殿詰・勝手方,下勘定所は取箇(とりか)方・伺方・帳面方に分け,以後の分課の基本が形成された。23年6月足高(たしだか)の制を設けて人材登用に道を開き,足高が在職中に限られたので支出抑制ともなった。また地方役人の綱紀をただし,不正代官ら14名を処罰,代官が不足したので1721年大名預所を復活した。25年代官所経費の口米を公収し必要経費は別途支給することとした。関東地方御用掛大岡忠相支配の代官グループは,勘定所と競合的に独自の農政を展開したが,45年,忠相は勘定所体制強化を理由に辞職,支配代官は勘定所に移管された。また関東郡代伊奈氏の支配権も勘定所によって限定され,畿内の支配体制も勘定所に一元化された。
年貢増徴と新田開発
幕領の年貢率は17世紀後半にしだいに低下し,1712年(正徳2)には2割8分9厘になった。そのうえ技術的限界から鉱山収益が激減,貿易収入も頭打ちとなった。幕府財政は支出増により悪化し,22年財政が窮迫し旗本・御家人の整理が必要となるほど切米支給や商人への支払が停滞したため,諸大名に対し参勤交代在府期間の半減を代償に高1万石につき100石の上米(あげまい)令を発し急場をしのぎ(1731廃止),根本的解決のため年貢増徴と新田開発に努めた。22年幕領に年貢定免(じようめん)制を施行,石代納に際し三分の一銀納制をとっていた上方諸国にこれをやめて米納を達し,米納困難で金銀納を願った場合は代官が石代値段をせり上げ勘定所にうかがうこととしたので年貢増徴の成果も上がったが,弊害が多く24年廃止した。同時に有毛検見取法(ありげけみどりほう)(有毛検見)を採用,米や商品作物栽培など生産力上昇の成果を収奪し,49年(寛延2)には上方を中心に全国に拡大した。有毛検見取法と定免制の併用による増徴が第3期の特徴である。22年新田開発奨励の高札を日本橋に掲げた。17世紀の新田開発は耕地を戦国時代の3倍強に増加させたが,1666年(寛文6)幕府は〈山川掟〉を出して新田開発を禁止,87年(貞享4)町人請負新田を禁じた。1722年の高札はこの本田畑中心主義を転換,町人資本の新田開発への進出を期待したもので,代官見立新田の奨励もあり,紫雲寺潟新田,下総国飯沼新田,武蔵野新田などが成立した。小物成場である私領村付地先開発地は幕領に編入され,26年新田の検地規準として新田検地条目が出された。こうして36年までに高7万7300石と7200町歩,37-45年神尾春央による関東流作場新田高2万0100石と2万3100町歩,合計3万0300町歩,武蔵野新田高1万2600石と2170町歩の開発をみた。この結果,改革末期には幕領石高は54万石,取箇も40万石余増加し,幕府収入は1732-41年平均米3万5654石,金12万7557両の黒字となり,1729年江戸城奥金蔵貯蓄金銀は100万両に達した。
収奪強化と金銀貯蓄は米価低落と金融梗塞を招いた。幕府は米価引上げのため幕領には60万石の置籾を,諸大名・商人には買米を命じ,1725年から江戸・大坂に米会所設立を計画したが失敗,大坂堂島米市場での延取引(空米取引)を公認した。32年西日本が蝗害でいわゆる享保の飢饉となり,被災飢民約260万,餓死者1万2000という被害を受けた。被災地に大量の救援米を回送したため米価が高騰し,33年1月江戸で米問屋高間伝兵衛店を細民が襲う最初の都市打毀が起こった。定免制の破免検見は1727年5割以上,翌年4割以上となったが34年3割以上に改訂した。また同年3月の諸国産物調,8月の御領地諸大名出兵令発布は飢饉への対応策であろう。飢饉対策や困窮旗本・御家人救済は支出を増し,奥金蔵金銀は21万両に減少したが,42年100万両に回復した。収奪強化と商業資本の農村侵食は改革への反感を集め,百姓一揆が増加,暴動・打毀・強訴の比重が増した。幕府は1741年に一揆頭取は死罪などとする一揆規定の罰則を強化した。
経済政策と都市政策
1695年(元禄8)幕府は田畑の質入れを認めるが質流れを認めないそれまでの方針を改め,証文に質流文言がある場合は質流れを認めることとしたが,1722年4月流地禁止令を出し元禄以前の方針に戻した。この趣旨を拡大解釈し質地騒動が越後頸城郡や出羽長瀞で起こったので翌年8月撤回し,41年以降田畑永代売買の罰則を軽減したため,地主的土地所有形成の条件が作られた。一方元禄ごろから深刻化した物価騰貴に対し,1723年三都の町奉行に諮問し,翌年2月物価引下令を発した。また物価引下げに関し新たな商業統制体制としての株仲間結成を図った。1718年江戸両替屋仲間が結成され,21年江戸商人・職人仲間,24年22品目を扱う商人組合結成が命ぜられたが,同年札差仲間,26年15品目の問屋が登録された。しかし享保の飢饉直後から再び米価が下がり,36年(元文1)大岡らによる元文金銀新鋳は,慶長金銀の品位100に対し金60・銀58と銀品位を下げたので貨幣流通が円滑になり,物価問題は一応の解決がみられた。江戸の都市政策では頻発する大火に対して1720年,いろは48組の町火消組の設定(1730年10組に改定),類焼家屋再建時の瓦葺き強制と塗屋,蠣殻葺き奨励のため貸付けを行った。
改革の評価
享保改革の成功は後世の幕府政治の模範とされ,寛政・天保の改革と併せ江戸幕府の三大改革と称される。しかし享保改革を文治政治に対する武断主義と説くことは,天和以来の将軍独裁体制としてその連続性をみることだが,これは封建官僚制成立などから否定される。享保期については寄生地主制成立の起点,農民的剰余の成立から構造的危機を認める立場と,幕藩制の完成・展開・修正,領主権力・国家権威の再建などと評価し,危機は次の宝暦~天明期(1751-89)に求める立場がある。改革政治の商業資本への依存などの政策は田沼時代に引き継がれたといえる。
執筆者:大野 瑞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報