刀は切るに便利な片刃の武器であり,剣は突くに便利な両刃の武器である。日本でも《和名抄》調度部征戦具に,刀は〈似剣而一刃曰刀〉,剣は〈似刀而両刃曰剣〉とあるように,片刃のものを刀,両刃のものを剣として,形体を区別するものであった。したがって刀剣といった場合,広義には打物武器を汎称するものであり,剣,大刀(たち),太刀(たち),刀,脇指(わきざし),短刀などのことをいい,そのほか槍(やり)や薙刀(なぎなた)なども含まれる。日本では弥生時代に銅剣が用いられ始め,古墳時代初期には鉄剣と鉄刀の両方が存在し,後期ではほとんど鉄刀だけとなる。それらはすべて反りのない直刀であって,反りのついたいわゆる日本刀が完成されるのは,平安時代中期ころのことである。以後はほとんど片刃の武器が主流となり,剣は実用武器としては使用されず,不動明王の持物や儀礼用の宝器などにおもに用いられた。
→大刀(たち) →日本刀
執筆者:原田 一敏
近代にいたるまでの長い歴史のなかでさまざまの形状のものが用いられたが,集団戦での長剣を見るかぎり直剣が主流を占め,反りのある曲刀は近代になってサーベルが一般化するまでは傍流であった。
ギリシア,ローマでは槍がもっとも重要な武器で,剣はむしろ二次的な武器とされ,近接戦で使用されたにすぎない。アテナイの兵は比較的短い両刃の直剣を帯びた。ローマでも民族古来の武器は槍であったが,ポエニ戦争のころから軍団正規兵はイベリア型の剣を帯びた。これは柄も含め長さ60cm程度,刃幅8cm程度,平行両刃の直剣で鈍角の切っ先をもっている。当時のケルト系民族に普及していた武器である。剣の制式採用と普及は,ギリシア式の密集長槍歩兵隊(ファランクス)の衝突戦からマニプルス(小隊)単位の白兵戦に戦法の重点が移行したことに照応している。ローマ帝政期,良質の剣の鍛造法には2通りあった。一つは薄葉の鉄と鋼を幾重にも交互に重ねたものを折り曲げ,鍛えて弾性と硬度をともに得ようとするもので,エトルリア人の間で始まったといわれている。いま一つは鋼材と木炭を断気加熱,浸炭による極度に硬い鋼を用いるもので,東方伝来の工夫である。東方から輸入されるこの種の剣,いわゆるダマスクス剣は鋭利なことで有名であった。
ゲルマン人はもと戦斧を多用したが,フランク人の間では7世紀ころスクラマサクスscramasaxeと呼ばれる剣が普及した。長さは85cmから30cmまで長短さまざま,刃幅6~3cm,刃の厚さ1cm程度。重量を軽減する工夫として刀身に樋(ひ)があるのを特徴とする。片刃で,峰は直線だが刃はゆるい曲線をえがく。切っ先が鋭く,両手で握って刺突を主たる用法とした。他方,90cmに達する両刃の長剣は貴族や指揮者の権威の象徴であった。ダマスクス剣の技術はヨーロッパに定着し,地理的に鉄の鉱床に恵まれたジーゲンやゾーリンゲンは,9世紀には名剣の産地として知られている。カール大帝は勅令をもって幾度か剣の輸出を禁じているが,魅力ある商品であったらしく,カロリングの工房の銘のある剣は広範囲に発見されている。
12~13世紀,騎乗衝突戦法の確立した段階では,騎士は長剣を鞍の前輪に吊り,短剣を身に帯びて出陣することが多かった。長剣は両刃直剣で長さ1m前後,樋を2筋入れて軽量化をはかっているが,重さは約2kgに達する。刀身に対して直角に棒状の鍔(鐔)(つば)をつけて十字形としたが,しだいに鍔の先端が刃身の方に湾曲したものが愛好されるようになった。敵の剣を受け止める工夫である。柄(把)(つか)頭に守護聖人の聖遺物を封入することが流行し,合戦に先立ってこれに接吻して武運を祈るのが慣いであった。このしぐさは現在でもフェンシングの試合開始前の作法に形をとどめている。騎士道精神の高揚に伴い,両刃の二つの刃には〈忠誠と公正〉などさまざまの意味が付会された。同じころ甲冑が発達したため,ダマスクス剣工法では斬撃の効果をあげなくなる。かつてのエトルリア式鍛造法が改良されて,軟鋼の中子(茎)(なかご)を硬鋼で完全に包みこむ工夫がなされた。短剣は断面がほぼ四角で,鋭い稜線をもち,もっぱら刺突用であった。中世末,鋼板鎧(プレート・アーマー)の登場により騎馬戦での斬撃の効用はいちじるしく減退し,完全装備の騎士も長剣を携えない場合が多くなった。剣の役割が刺突に限定されたため,長剣は細くなる傾向を示した。これは徒歩戦で両手で握って用いた。これに対し,刺突用の短剣は大いに普及し,形状や名称もさまざまのものが出現した。三角形の断面をもつダゲットdaguetteもその一種である。
銃砲の普及は刀剣の役割を決定的に低下させる。ルイ14世の常備軍は制式武器としてサーベルを採用し,これ以後騎兵用軍刀として一般化する。サーベルには反りのあるものとないものがあるが,ともに片刃で斬撃用である。また中世の長剣に比し軽量化している。拳を保護するために鍔の一端を延長して柄頭に連絡したり,籠状の防具(コルブ)を装着するなどの工法がなされた。サーベルは,実戦に用いられなくなった後は指揮刀として利用される。軍隊は別として,日常に刀剣,特に長剣を携帯する風習は比較的早く廃れたが,フランス革命は正式に市民の武器携帯を禁止した。
前近代を通じて,戦闘はさまざまの武器によって行われ,刀剣の実戦における役割はかならずしも決定的ではなかった。にもかかわらず,刀剣,特に長剣が武器を代表するという観念はつねに存在したし,権力や身分のみならず,ときには神秘的な力の象徴であった。鍛造に高度の技術を要したうえに鋭利さが賛嘆の念を誘ったからでもあるが,ゲルマン人の古伝説に登場するウィーラントのように超人的な神工が語られ,また《ローランの歌》の中のデュランダル,ジョアイユーズ,オートクレールのようにほとんど擬人化されたのも,数ある武器の中で刀剣に限られている。この武勲詩では,臨終の主人公が愛剣に語りかける場面で流露する感情は盟友に対するそれに近い。刀剣がいやがうえにも貴重視された結果,装飾が付加されて美術品化する場合があったのも当然で,16世紀に刀剣工芸の絶頂をみることができる。高貴な贈答品ともなり,ローマ教皇が君侯に贈った〈祝福の剣〉は有名である。実用性をまったく失った現代でも,たとえば武闘とはおよそ無縁なアカデミー・フランセーズ会員の式服には帯剣の定めがある。
執筆者:渡邊 昌美
刀の字は,象形で甲骨文にと見える。殷・周時代の刀は,青銅製の短刀,小刀がそのおもなものであった。殷・周時代の青銅刀は,武器としてのほか,犠牲を処理する料理刀(膾刀(かいとう)),屠殺用の牛刀など,なによりも実用性に富む利器として利用された。近年になって,仰韶(ぎようしよう)文化の晩期にあたる甘粛省の馬家窯(ばかよう),馬厰(ばしよう)類型の二つの遺址から青銅刀が出土したが,それは石刀を思わせる鈍器のようなものである。殷代の中期以降になると,庖丁に似て脊(むね)/(せき)のまっすぐなもの,湾脊(わんせき)で刃がS字状にかなり屈曲し刀首が船舳になったもの,柄頭に環をつけ,弧形の脊に刃はややゆるくS字状をなす環頭刀(環柄刀,環首刀)などがみられ,いずれも全長30cmに満たない小刀である。前2者の刀は,茎(なかご)に木片の柄をつけ刀脊に装飾があったり,竜紋などの文様がほどこされたりして,儀式用に使用された。環頭刀は,装飾性が排除された実用刀であったとみられる。〈内湾刀〉と称される刀は,殷後期になって出現する。刃が内湾するところからこの名称で呼ぶが,刀脊は弧形をえがき30cm前後の長さである。柄頭に環,あるいは馬頭,水牛頭などの獣頭をもつものもある。内湾刀は,さきの青銅刀とちがって,格闘において十分に相手の殺傷にたえる鋭利さをそなえている。戦車に乗った戦士が弓矢・干戈(かんか)とともに身に帯び,車戦でのとどめをさす武器に使用されたのであろう。春秋時代になると内湾刀は,全体が細身で刀身も30cmをこえるものが多くなり,武器としていっそう威力を発揮した。殷・周期にはこのほか20cm前後の小刀が数多くみられるが,料理,細工,護身などの用に使われたのであろう。
青銅剣が発達した戦国期をへて,製鉄技術が長足の進歩をみせる前漢時代になると,通常1m前後におよぶ鉄刀が製作され,この時期の主要な戦争形態であった歩兵と騎馬による戦いに殺傷能力を示した。刀脊,刃はまっすぐで,青銅製の環柄刀と同じく柄頭に環がついている。環柄鉄刀は,すでにこのころ,戦場での格闘武器として,青銅製の長剣をしのいで主要な武器となり,後漢にいたってその頂点に達する。防護具の盾を片手にしながら,刀をふるうのが,歩兵,騎兵をとわず,この期の戦士の姿であったのである。製鉄技術の発達は〈百錬鋼〉といわれる鉄刀を生みだすが,何回となく焼きを入れ,反復鍛えあげた剛刀で,その鋭利のほどは,〈水に竜舟を断ち,陸に犀甲(さいこう)を剸(き)る〉(《淮南子》脩務訓)との修辞が残る。その後の南北朝時代を通しても,刀は主要な武器の位置をしめた。三国の英雄関羽が愛用したと伝えられる偃月(えんげつ)の長刀をはじめとして,刃の長さ3尺,柄の長さ4尺,柄の先端に鐏(いしづき)をあしらった7尺の大刀など,これまでの短柄刀とは別に長柄刀があらわれる。唐代になると長柄刀に改良が加わり,両刃,全長1丈,15斤の重さをもち一挙に数人をも殺すという陌刀(はくとう)が盛んに用いられ,陌刀隊の戦場での活躍はめざましかった。陌刀将の李嗣業は名高く,吐蕃(とばん)の軍や安禄山との戦いで,陣の先頭をきって陌刀をふるい,敵の人馬もろとも砕いたという。
宋以降は,火薬の発明によって火器が戦場で威力をもちはじめるが,刀もさまざまに発達をとげ,長柄刀,短柄刀があわせて通常兵器として用いられた。長柄刀はその刀身の型によって,屈刀,偃月刀,眉尖刀(びせんとう),鳳嘴刀(ほうしとう),筆刀,掉刀(ちようとう),戟刀(げきとう),挑刀(ちようとう),虎牙刀などの名称が与えられている。短柄刀も各時代により特徴をもつ。とりわけ明代には,かつて宋の欧陽修によって〈宝刀,近ごろ日本国に出づ,越賈(えつこ)これを滄海東に得〉(〈日本刀歌〉)とうたわれた日本刀が数多く輸入され,その影響をうけた刃の長さ5尺,柄の長さ1尺5寸の長刀が歩兵の主力武器に使用された。清代では,八旗兵が装備した短剣を思わせる特殊な順刀もあったが,俗に青竜刀の名称で知られる大刀が主要な刀であった。
剣も刀とおなじく青銅製から鉄製に材質上の変化をとげる。銅剣のもっとも早い出土例は,長安の張家坡の西周墓からのものである。全長約27cm,柳葉の形をもち匕首(ひしゆ)に近い。北京,陝西省宝鶏からも同様な柳葉形の西周期の青銅剣が出土している。いずれも17~18cmの刃わたりである。先述したように,西周時代の主要戦闘形態は戦車による車戦で,戈,矛(ぼう),鉞(えつ)などが主要な武器であったので,銅剣はせいぜい護身用として身に帯びられたものであろう。春秋前期になると,円柱体の茎がまっすぐ延長して凸形の中脊をかたちづくり,剣首が皿形の柄と剣身がいっしょに鋳られた〈柱脊剣〉が出現する。河南省三門峡市の上村嶺虢国(かくこく)墓出土のものがこれで,のちの青銅剣の原形をそなえる。長さは28~40cm。春秋後期は,銅剣の形式が確立する時期で,このあと戦国時代から鉄剣にかわる漢代まできわだった変化をみせない。鐔の幅は広く帯状,柄は円筒形で環状の二つの節がつく〈有節柄〉の青銅剣がその主流をしめた。
春秋後期から戦国時代にかけて,5人の歩兵からなる〈伍(ご)〉という戦闘組織が確立し,歩兵戦における最小単位を編成した。河南省汲県(きゆうけん)山彪鎮(さんひようちん)の戦国墓から出土した銅鑒(どうかん)にえがかれた攻戦文は,この〈伍〉の戦いを如実に示すものである。それによれば,対峙するすべての歩兵の腰には剣が装備され,ある者は剣と戈をふるい,ある者は剣をおさめて戟をつき,ある者は弓矢を射る白兵戦がくりひろげられている。護身用の武器から戦闘武器へと剣は発展をとげたのであった。戦闘ではたす青銅剣の重みが加わるにつれて,鋭利で堅靱な長剣に改良されてくる。戦国末の秦の始皇帝のころには,80cmから90cmにおよぶ青銅の長剣が製作された。剣の脊の錫(すず)の含有量はやや少なく,刃部がやや多い。技術的にみて,折れにくく鋭さを増している。
出土例のもっとも早い鉄剣は,湖南省長沙の春秋晩期の墓からのもので,炭素含有量0.5%の中炭鋼であるという。現在の湖南省の地域は,史書に〈楚之鉄剣〉とその名をのこすが,この地域から戦国期の各種の鉄製武器が出土し,とりわけ鉄剣が多く,1m前後の全長が多数をしめる。最長の鉄剣になると1.4mに達する。楚に劣らずすぐれた鉄剣を鋳造したのは北方の燕国(北京地方)で,出土例の調査によれば,錬鉄をさらに脱炭し加熱鍛造したもので,刃部は焼入れのなされた強靱な鋼剣である。前漢の武帝時代,製鋼技術はいっそう発達をみせる。河北省満城漢墓から出土した劉勝の鉄剣は,鋼剣の鍛造技術の水準を代表する〈百錬鋼〉の初期の秀品とされる。前漢に銅剣は鉄剣にとってかわられるが,鉄剣も殺傷力にまさる鉄刀にやがてその位置をゆずり,それ以後は儀仗用に使用されるのみであった。
なお,東周の銅剣の形式分類については,青銅器文化の淵源・伝播の問題と関連して,先に概観したいわゆる中国式銅剣,遼寧式銅剣,シベリアのタガール文化期のアキナケス型短剣に似るとされる北方式銅剣,また青銅器文化の発達した雲南の銅剣をめぐって,その文化的影響関係の議論がある。近年の中国の学界では,とりわけタガール文化,あるいはオルドス青銅器文化にみられる銅剣の年代が,中国の柳葉剣,柱脊剣よりおくれるとして,北方からの影響説を否定している。
短剣の一種に匕首がある。〈あいくち〉である。燕太子にかわって秦王(のちの始皇帝)を,地図のうちに巻いた匕首を手に刺殺しようとした荆軻(けいか)の壮士ぶりは《史記》刺客列伝に劇的に描写される。匕首は戦国時代の刺客の多くが使った武器であった。匕首は文献に〈其首(頭)類匕〉といい,その首あるいは頭が匕(さじ)に似るからこの名称がある。しかし柄頭が匕の形をした短剣と理解すべきではなく,〈匕の頭の形の短剣〉,つまり剣身の先端が匕の形をした短剣なのである。出土例からみると,剣より薄手で,切りだし小刀のような刃をもち,剣身の一面は凸で,もう一面は平面もしくはやや凹になっていて,刺殺機能にすぐれるという。
佩玉(はいぎよく)が古代王侯貴族の身分標識であったように,刀あるいは剣を帯びることも,身分と威風をかがやかす機能をもった。近年,戦国時代の越王句践(こうせん),呉王夫差の銘をもつ銅剣が,墓主の副葬品として幾例か出土している。日本でも展覧された湖北省江陵望山1号墓の越王句践の剣は,全長55.7cm,〈越王鳩浅(句践)自作用(剣)〉の鳥篆体(ちようてんたい)の銘文を格(つば)の近くに彫りこみ,剣身に菱形の暗紋がほどこされた銅剣である。文献に頻出する名剣,宝剣をうらづける精巧なできばえを示すこれらは,武器としての実用性よりも,生前における墓主の政治的身分の威厳を表徴し,死にともない副葬されたものである。
佩剣の風が東周時代に盛行したときは,貴族階級に限定されたものであった。秦の簡公6年(前409)に〈吏をして初めて剣を帯びしむ〉とあるように,官吏の身分象徴として佩剣の風がやがて広まり,前漢には〈皇帝より百官に至るまで,剣を佩びざるなし〉といわれた。しかし武器としての鉄刀が銅剣や鉄剣にとってかわるにともなって,佩剣も佩刀へと変化をみせる。後漢王朝はその儀礼制度のなかに百官の身分等級を示す佩刀の規則をことこまかに規定したが,南北朝から隋・唐においても,その傾向は変わることなく官品の差を表徴する機能をもった。
霊剣,宝刀にまつわる説話は,中国でも,玉を切るに泥を切るがごとしといわれた昆吾(こんご)の剣,匈奴遠征で軍中水なく,将軍李広利が佩刀をぬいて山を刺すと飛泉湧出したという李広利の刀など,豊富に伝承をのこす。そもそも黄帝,蚩尤(しゆう)といった伝説上の人物に,刀剣製作の創始が仮託されたりもするのである。魯迅の《故事新編》におさめる《鋳剣(ちゆうけん)》は,眉剣尺(みけんじやく)が非命にたおれた剣づくりの名匠であった父親のため,得体の知れぬ黒い男の手助けで,のこされた雄剣とみずから打ち落とした首とでもって仇討をとげる異常な復讐譚として知られる。この小品は,《列士伝》《孝子伝》《捜神記》などにみえる干将(かんしよう)・莫邪(ばくや)夫妻とその子眉間尺(赤)にまつわる〈三王冢〉の伝承にもとづく。中世日本の《太平記》(巻十三)にも挿入されて,彼我ともどもなじみ深いが,干将・莫邪に関する原初的な伝承は,《呉越春秋》にのせるものである。呉の剣匠干将・莫邪の夫婦が呉王闔閭(こうりよ)よりふたふりの剣の製作を命ぜられる。二人は五山の精をとり,六合の英をあわせ,天地を伺候(しこう)し,陰陽光を同じくして百神臨み観て天気下降したにもかかわらず,3年かかってもなお完成をみなかった。断髪剪指(せんし)し炉中に投じ,童女300人に槖(ふいご)を吹かせて,ようやく名剣はなり,陽剣を干将,陰剣を莫邪と名づけ,陰剣の莫邪のみを呉王に献じたという。この説話は,古代中国の冶金技術を考察する際に必ず言及される(たとえばふいごの使用)のであるが,鍛冶をめぐる民俗を知るうえでも多くのことがらをものがたる。炉中に髪や指(爪)を投じたのは,それらがのびやすいことから復活に,童女300人は少女のもつ若々しさに,それぞれつながる呪術であって,古代社会における金属技術のもつ神秘性,魔術性が反映されたものといわれる。
さきの越王句践の剣の出土にもみられるように,呉越の地(江蘇,浙江)は春秋戦国時代に〈宝剣の郷〉として知られ,鋳剣技術の先進地域であっただけに,剣を神秘化した伝承の舞台でもあった。鏡の神霊性を強調する思想は道教に始源をもつといわれるが,呉越地方を舞台にした剣の神秘化・神霊化の伝承をさらにおしすすめ思想化したのも道教思想であった。漢・魏より六朝を通して,たとえば劉邦の斬蛇の剣が神剣化され皇帝の玉璽(ぎよくじ)とともに伝国の宝とされ,帝王の威霊の象徴となったり,多くの詩文に神剣や宝剣が個人の生死・禍福の命運を左右したり,百邪・魑魅(ちみ)を除去するモティーフが展開される。さらには〈真人の世を去るや,多く剣を以て形(かたしろ)に代う〉という不死を求めて尸解(しかい)する仙術において剣が重要な鍵をにぎった。これらの剣にまつわる一連の神秘な伝承は,銅・鉄を鋳錬する技術にひそむ魔術性を背景として,道教神学の思想体系のなかに意識的にとりこまれていった。そして皇帝権力と結びつきを強めた唐代道教において,天界の上帝と地上の帝王を結合する象徴として皇帝権の権威づけに,鏡とともに剣は神霊化されたのであった(司馬承禎《含象劔鑑図》)。
→銅剣 →武器
執筆者:須山 努
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
刀(かたな)と剣(つるぎ)の総称。刀は「物を断ち切る」もの、剣は「先の鋭くとがった突き刺す」利器のことで、普通、刀は片刃、剣は両刃である。しかし、明治以後の軍人や警官の西洋風サーベルや短剣、剣付鉄砲のように片刃の剣もある。特殊な形の刀や剣に、薙刀(なぎなた)や槍(やり)がある。素材の面では、古くは石器の刀剣や、日本の縄文晩期の是川(これかわ)遺跡出土品にみるような木製の飾り太刀(たち)もある。しかし、切る、刺すという実用上の使命を果たす武器としての刀剣は、金属、ことに銅(青銅)と鉄(鋼(はがね)=刃鉄(はがね))の製造、加工、処理技術を基礎に発達した。
[飯田賢一]
世界の刀の傑作として、日本民族が完成した鉄の文化財、日本刀が知られている。日本刀は、折れず、曲がらず、よく切れる、という刀の最大の条件を備えたうえに美しい。現代アメリカの金属学者で技術史家でもあるC・S・スミスは、日本刀の仕上げは「金属組織学者の卓絶した金属芸術である」と述べている。西欧が早く顕微鏡など測定器械を発明して金属の科学を成立させたのに対し、日本は物理や化学の法則は知らなかったが、西欧に先駆けて合わせ鍛え、焼入れなど、金属組織学的にもすばらしい熱処理の技術的知恵を生み出したのである。
考古学からみると、日本の弥生(やよい)時代には、北九州地方を中心に鋳造銅剣が多く分布し、そのうち鋒(きっさき)の狭い細形のものは大部分朝鮮や中国の舶来品、広い鋒をもつ平形のものは和製品である。その用途はおもに宝器、祭器で、実用外のものであった。古墳時代以後は鉄剣と鉄刀が併存して出土し、時代の下るにつれ鉄剣は儀式用の宝器となり、鉄刀が実用刀となる。だが鉄剣も鉄刀も初めはすべて直刀で、環頭大刀(かんとうたち)や、蕨(わらび)の頭のような柄頭(つかがしら)をもつ蕨手(わらびて)の横刀(たち)が知られている。古代日本の刀剣は、東大寺や正倉院の文化財のなかに高麗剣(こまつるぎ)や唐様大刀(からようのたち)などがあるのでもわかるように、大陸の影響を受けている。平安時代に入るころからは、直刀から彎刀(わんとう)、つまり反りのある刀に移り、技術的にも日本刀の原型ができあがってゆく。もちろん刀剣の反りは、突く技(わざ)から薙(な)ぐ技へ、徒歩よりも馬上から切り下ろす場合への実用上の変化を示している。
平安時代から鎌倉時代初期にかけて、日本刀は黄金時代を迎える。一つには、リン、硫黄(いおう)など不純物の少ない優秀な炭素鋼(玉鋼(たまはがね))が日本でつくられたこと、もう一つは、折れない、軟らかい鋼と、曲がらないでよく切れる硬い鋼という相反する条件を総合的に生かす鍛錬の技術がくふうされたことによる。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)以前の作を古刀、以後を新刀、さらに文化・文政期(1804~1830)以後のものを新々刀(復古刀)、明治以後を現代刀と呼び分けるが、作刀の技術も美しさも古刀が優れている。日本刀に関しては、俵国一(くにいち)の『日本刀の科学的研究』(1953)をはじめ多数の研究書がある。
[飯田賢一]
歴史も古く、地域も広範にわたっていて種々の様式がみられるが、殷(いん)代の武器の出土品には矛(ほこ)や戈(か)が多く、周代になると多くの小刀に混じって鋳銅製両刃剣がみられる。秦(しん)の始皇帝陵からは青銅製両刃の長刀も出土しているが、秦代にはかなり鉄製刀剣が普及したものと推察されている。前漢代には製鉄技術が長足の進歩を遂げ、剣とともに片刃の直刀もみられ、下って隋(ずい)・唐代には切刃造直刀が広く用いられた。南宋(なんそう)から明(みん)代にかけては、両刃の剣のほかに片刃の手刀(青竜刀)や、薙刀でも屈刀、眉尖刀(びせんとう)、掉刀(ちょうとう)などが現れた。またこの時期には日本刀が数多く輸入されたため、その影響もあって刃の長さ1.5メートルにも及ぶ長刀が主力武器としてつくられており、腰刀も先反りの強いところに特徴がある。
[小笠原信夫]
紀元前1200年ごろヒッタイト人によって鉄器が用いられ、青銅にかわって利器などに鉄が多く用いられるようになった。エジプト、ギリシア、ローマなど古代人の用いた刀剣は寸法の短いもので、いずれも身幅の広い両刃の剣が主であった。中世初頭フランク人の社会では、長剣は身分ある者だけがもったといわれる。しかし、すでにササン朝ペルシア(6世紀ごろ)の遺品には、正倉院の金銀鈿荘唐大刀(でんそうからだち)に近い黄金装の長剣がみえる。ヨーロッパでは中世に入ると、長剣を腰帯に吊(つ)るすことが普及していった。
西洋の剣は片手で用いる短い柄(つか)のものが一般で、日本刀のように双手(もろて)用の長い柄のものはまれである。短剣にも長剣にも、外装を美しく飾った高級品が王や貴族の所用するところとなり、金銀の金属の鞘(さや)と柄に彫金を施し、種々の宝石を象眼(ぞうがん)したものがみられる。甲冑(かっちゅう)が全身を鉄で覆う堅牢(けんろう)重厚なものとなった時代には、刀剣も豪壮長寸のものが生まれている。これは大きさと重さを利用して突くか、たたき切るものであったが、16世紀には貴族の決闘用に発達したといわれる細身の剣が生まれ、これを用いたフェンシングとよばれる武技が発達している。一方、16世紀以後、主として騎兵が用いたサーベルは、片刃で反りのついた彎刀である。とくにフランスのルイ14世が騎兵用の剣として採用してからは、ヨーロッパ各国に普及している。この様式は、トルコのオスマン帝国軍が用いた半月刀の影響によるものとみることができる。
[小笠原信夫]
『佐藤寒山編『日本の美術 6 刀剣』(1966・至文堂)』▽『俵国一著『日本刀の科学的研究』復刻版(1982・日立印刷出版センター)』▽『中沢護人著『鉄のメルヘン』(1975・アグネ)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
広義では武器として用いられた刃物全般をさし,槍や薙刀(なぎなた)も含む場合がある。一般には片刃の太刀(たち)・刀・脇差・短刀および両刃の剣を総称する。太刀は佩き,刀は差すとの区別はあるが,普通は2尺以上をいい,脇差は1~2尺未満,短刀は1尺以下をいう。剣は寸法にかかわらず左右対象の両刃造である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」事典 日本の地域ブランド・名産品について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…騎馬が戦車に交代するのは当然のなりゆきであった。そして騎馬の普及とともに刀剣にも変化が生じた。それまでの突く直刀から反りのある刀への変化も,前進しつつ切るための当然のくふうであり,半月刀ほどの反りはなくとも,日本刀にも反りが生じている。…
…1445年(文安2)の兵庫北関では船の入港数が1000艘を超え,瀬戸内沿岸各地には陶器,莚,染料,紙,鉄などの主産地が形成され,備後の塩,阿波の藍,備中檀紙,備後表,備前壺,千種鉄などは15世紀に名産として大量に畿内に流入している。前代から発達をとげた刀剣は,玉鋼(たまはがね)と呼ばれる日本独特の良質鋼鉄を素材とし,その鋭利性によって中国に大量に輸出される一方,明からは銭貨が流入して,貨幣経済はいっそう発達した。実に日本は当時世界屈指の武器輸出国であった。…
※「刀剣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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