日本の城がわかる事典 「涌谷城」の解説 わくやじょう【涌谷城】 宮城県遠田郡涌谷町にある戦国時代から江戸時代にかけての平山城(ひらやまじろ)で、江戸時代には仙台藩21要害の一つとされた。築城年代、築城者は不明である。戦国大名大崎氏の一族で家臣の涌谷氏の居城だったが、1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置により、大崎氏は所領を没収されて滅亡し、秀吉家臣の木村吉清の属城となったが、その後間もなく、旧葛西・大崎領に国替えになった伊達家の所有する城となった。伊達政宗(だてまさむね)は、この城を大叔父で家臣の亘理元宗に与えている。元宗は亘理(わたり)城(亘理郡亘理町)を築城し居城としていたが、この城に移った。2代重宗のときに近世の城郭として涌谷城が整備され、3代定宗の時に、本格的な城郭として完成した。また、定宗は伊達氏を名乗ることを許され、以後、亘理氏は涌谷伊達氏と呼ばれるようになる。これ以後、涌谷城は涌谷伊達氏2万石の居城として明治維新まで存続することになった。なお、4代の城主が伊達安芸宗重で、わずか2歳の伊達綱村が仙台藩4代藩主になると、後見役の一関藩主・伊達兵部少輔宗勝や国老の原田甲斐宗輔らと対立を深め、1671年(寛文11)3月27日、宗重は宗輔に斬殺されてしまうという事件が起こった。いわゆる伊達騒動と呼ばれる仙台藩の内紛の一コマである。城跡は現在、城山公園となっていて桜の名所として知られる。園内には、二重の隅櫓(すみやぐら)(太鼓堂)、石垣、空堀が残っている。また、櫓の隣には天守風の涌谷町立史料館がある。二の丸は広い平場で、現在は4代宗重を祀る涌谷神社の境内となっている。JR石巻線涌谷駅から徒歩約15分。◇涌谷要害とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報