日本歴史地名大系 「清兵衛新田」の解説 清兵衛新田せいべえしんでん 神奈川県:相模原市清兵衛新田[現在地名]相模原市清新(せいしん)一―八丁目・南橋本(みなみはしもと)一丁目・同四丁目・相模原二―八丁目・中央(ちゆうおう)一―二丁目小山(おやま)村の南の地先の相模野を、同村の代々名主役を勤めた豪農原清兵衛光保が天保一四年(一八四三)開発した新田。東は矢部(やべ)新田に接する。初め相模原開発場と称し、安政三年(一八五六)検地で清兵衛新田と改めたという(皇国地誌)。検地帳(相模原市史五)によれば名請人は五〇名(清兵衛ほか屋敷持四九)で、一四二町七反余のうち下畑一〇七町三反余・見付畑二一町八反余・林畑三町一反余、高四二〇石余であった。 清兵衛新田せいべえしんでん 愛知県:中島郡平和町清兵衛新田[現在地名]平和町下三宅(しもみやけ)現在の須(す)ヶ谷(たに)川沿岸に比定される。「徇行記」によれば概高二九石余、田畑三町二歩。延享四年(一七四七)と寛政七年(一七九五)に縄入が行われたとのみ記されている。「広報へいわ」第一三三号には「旧河川敷であったのを、三宅の人、清兵衛が中心となって開拓した」「後になって、この地は菱池・桐野々・蒲原という小字に分けられ、一般には清兵衛新田と公称されなくなり、自然消滅のかたちで、現在に至っている」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by