三宅村(読み)みやけむら

日本歴史地名大系 「三宅村」の解説

三宅村
みやけむら

[現在地名]松原市三宅東みやけひがし一―七丁目・三宅中みやけなか一―八丁目・三宅西みやけにし一―七丁目・三宅町・阿保あお二丁目・同五丁目

阿保村・田井城たいじよう村の北にあり、西は池内いけうち村。宝永元年(一七〇四)大和川付替えによって切離された西瓜破にしうりわり村・東瓜破村(現平野区)の村域が、同川南岸沿いに残っていて三宅村に接している。おおむね平坦であるが、集落は羽曳野はびきの丘陵の西縁のやや高い所にある。村の中央を中高野街道が南北に通る。古代丹比たじひ郡三宅郷(和名抄)の地。集落の西方に整然とした条里制遺構が残る。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に丹北郡矢田やた庄がみえ、その田地の所在地の一所に「北参条(中略)野中里拾捌坪捌段」がある。当地北西部に野中のなか池があり、池内の字にも野中があるので、一帯は「野中里」にあたると考えられる。下って応永元年(一三九四)八月五日の西琳寺領田畠目録(西琳寺文書)に僧食方、長老忌日田方として「三宅阿保内忌日田分」一町八反六〇歩がみえる。一切経方として「羽咋郷内三宅分」が三町九反二四〇歩あり、「買得寄進之下地」と記される。このほか大明庵方として三宅分五反があった。また享徳二年(一四五三)一二月二〇日および康正二年(一四五六)同月同日の大和国五条栄山えいさん寺の寺領年貢収納帳(栄山寺文書)に「三宅分」として若干の年貢を納めることを記している。

明応二年(一四九三)畠山基家を討つため、将軍足利義稙が平野ひらの(現平野区)に近い正覚寺しようがくじ(現同上)に陣を構えた。将軍方の前線は「くわんせん寺」、西浦にしうら(現羽曳野市)、藤井寺(現藤井寺市)おか若林わかばやし・三宅であった(「蔭涼軒日録」三月二日条)。やがて河内の各地で合戦があり、「師淳記」によると同六年一一月に将軍方の河内の守護代遊佐河内守が三宅で敗れ、多数の戦死者を出した。また本願寺証如の「天文日記」天文一五年(一五四六)八月二七日条に「細川次郎高屋ニ在陣、同四郎河内三宅ニ居陣」とある。


三宅村
みやけむら

[現在地名]茨木市宇野辺うのべ一―二丁目・丑寅うしとら一―二丁目・蔵垣内くらかきうち一―三丁目、摂津市鶴野つるの一―四丁目・千里丘東せんりおかひがし一―三丁目・香露園こうろえん千里丘せんりおか一―二丁目など

江戸時代初期の村名で三宅郷ともいう。茨木川下流西岸からさかい川東岸にかけた地域で、村内を坊領ぼうりよう(法領)川・あさ川・丑寅川が流れ、茨木川とともに安威あい川に注ぐ。千里丘陵の東麓に位置。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「小坪井村・蔵カイ地村・(丑寅)村・宇野部村・上宇野部」として二千七五石余と一括された地で、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳には「三宅村小村四ツ有」とみえ、宇野辺村が独立して高付されているが、江戸時代中期にはその郷的結合を残したまま太中たいなか村・乙辻おとのつじ村・小坪井こつぼい村・鶴野新田(現摂津市)東蔵垣内ひがしくらがいち村・西蔵垣内村・丑寅村・宇野辺村の八ヵ村に分村した。分村の時期については慶応四年―明治五年(一八六八―七二)の諸事付込改写帳(古木家文書)に「三宅村分郷ニ成リ候節、板倉周防守様御知行所」とあるので、京都所司代板倉重宗領であった一七世紀中葉とも推定される。郷内の耕地は著しく錯綜し、小村八ヵ村は用水・排水上もきわめて緊密な関係にあり、またその集落も茨木街道沿いに集中していたため、各村の自立性は希薄であった。


三宅村
みやけむら

[現在地名]五日市町三宅・観音台かんのんだい

坪井つぼい村の南にある東西に細長い村。北および西は高い山がそびえ、東と南に開けた平地に集落が展開する。「芸藩通志」に「上古此地に屯倉ありし故にかく村名に残りしなるべし」とある。「日本書紀」安閑天皇元年閏一二月条にみえる「安芸国の過戸の廬城部屯倉いほきべのみやけ」を「大日本地名辞書」は現安芸郡府中ふちゆう町付近に比定するが、当地とする説も有力である。

嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に記す「三宅兵衛尉」は、当地の地名を冠したものと考えられる。「房顕覚書」の大永三年(一五二三)の記事に「未ノ年石道小幡興行防州家タルニ付、佐東衆神領ヨリ取懸、武略ニ和談シ、三宅円明寺マテ落城、彼寺家ニテ親類八人腹切ルヽ」とあり、厳島社神主職の継承争いで、当地がその戦場となっている。


三宅村
みやけむら

[現在地名]平和町観音堂かんのんどう上三宅かみみやけ中三宅なかみやけ下三宅しもみやけ

東は三宅川が南流し、西はたに輪中悪水路である。民家は三宅川沿いにあって、西方に耕地が多い。南は東城とうじよう村に接する。「尾張志」に「日本書紀小武小広国押盾天皇元年の紀に蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀云々と見えたる屯倉のありし旧地にて和名抄に中島郡三宅としるし大塚村性海寺所蔵の正嘉二年戊午六月三日沙弥昌吽が寄進状に中島郡南条三宅郷小棒里と見えたり今上下二ケ村となる」と記している。

「新編一宮市史」によると屯倉は海部あま佐織さおり町の奥津社おくつしやから発見された三角縁神獣鏡が、成務朝の島田上・下県にかかわりのあるもの、つまり島田県主に分与されたものとすれば、島田県は佐織町千引せんびきを中心とする地域にあったことになる。


三宅村
みやけむら

[現在地名]鈴鹿市三宅町

徳居とくすい村の西、集落はなかノ川南岸の段丘上にあり、南は丘陵が多く、水田は北岸に広く分布する。三宅村の語源については、本来は古代の屯倉に基づくとされるが、史料は見あたらない。あるいはこの北方の鈴鹿郡国府こう(現国府町)にあった国衙の穀倉が置かれたとか、奄芸郡衙の所在地とかの説(五鈴遺響)があるが根拠はない。

戦国時代は三宅氏がこの地に三宅城を築いて拠ったが(→三宅西条城跡、永禄一二年(一五六九)織田信長に滅ぼされる。文禄検地帳(徳川林政史蔵)では田畠屋敷合一〇一町八反で、田七〇町余のうち六〇町余は上田が占め、良田地帯である。関ヶ原役の翌慶長六年(一六〇一)には、村の一部一六四・三四〇石が上野うえの(現安芸郡河芸町)の分部左京亮(光嘉)領となっている(「分部文書」写・東大史料編纂所蔵)


三宅村
みやけむら

[現在地名]岐南町三宅

下印食しもじき村の東、さかい川南岸に位置。「濃陽志略」に古くは井口いぐちといい、中世に三宅と改めたとある。「濃州徇行記」に「此村は岐阜御成道の東にあり、(中略)本郷と支村木瀬、須賀と三ケ処に民居わかる、農業を専営とし、其内菅大臣島木綿を織り渡世の助とするもの二戸ほどある由、此あたりは地高くして水損なく又土地もよし」とあり、木瀬きぜは本郷の南の伏屋ふせや村境に、須賀すかは本郷の北方境川堤傍にあると記す。親鸞に帰依した河野九門徒が輪番で守った道場は、当初木瀬にあったと伝え、木瀬道場とよばれた。のち河野道場ともよばれたが、いつまで木瀬にあったかは不明。弘治三年(一五五七)一二月一七日、斎藤義龍は三宅村内西海さいかい寺領と印食村那波領の一〇〇貫文を常在じようざい(現岐阜市)に寄進している(「斎藤義龍寄進状写」常在寺文書)


三宅村
みやけむら

[現在地名]南区三宅一―三丁目・大橋団地おおはしだんち若久団地わかひさだんち大橋おおはし一―四丁目・南大橋みなみおおはし一―二丁目・筑紫丘ちくしがおか二丁目・塩原しおばる四丁目・和田わだ一丁目

和田村・野多目のため村の北、那珂なか川左岸にある。東は下曰佐しもおさ村・横手よこて村・井尻いじり村、西は若久村。北部を北西から南東へ福岡往還が通っていた。「和名抄」所載の那珂郡三宅郷の遺称地とされる(続風土記拾遺)。永和三年(一三七七)六月三日の宗澄茂書下(斎藤文書/南北朝遺文(九州編)五)によれば、久禰五郎左衛門入道に「筑前国三宅村」内一〇町が給与された。


三宅村
みやけむら

[現在地名]西都市三宅

妻万つま村の西に位置し、大小の古墳が群集する西都原さいとばる台地とその周辺を占める。村内は山林や原野が多く、集落の中心は西都原台地の南東麓にある。米良めら街道が通る。古代児湯こゆ郡三宅郷(和名抄)、同郷を継承する中世三宅郷の遺称地。近世の領主の変遷は穂北ほきた村と同じ。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録には「五拾町 三宅」とみえる。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高一千六六六石余、元禄国絵図では高二千三〇四石余。天保郷帳では高二千三二四石余。寛政七年(一七九五)の年貢割付状(三宅村文書)によると明和七年(一七七〇)から三〇年の定免で、本年貢は真米九五六石余・赤米三一石余、ほかに小物成に定納の山手・樹木・藁縄・筵・苫、不定納の酒屋・室屋・鍛冶屋・鋳物細工・紺屋・麦焼酎の各役があり、高掛り三役などと合せて代銀一貫七二五匁余を納めている。


三宅村
みやけむら

[現在地名]福井市三宅町

九頭竜くずりゆう川下流域左岸の小丘陵に位置する村で、南は布施田ふせだ村に続く。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「三宅之郷」として高二五五五・八二四石とあり、その石高から推定してのちの三宅・小尉こじよう砂子田すなごだ藤瀬ふじせ円納えんのう白方しらかた(現福井市)横越よこごし下野しもの野中のなか黒目くろめ米納津よのづ(現坂井郡三国町)の一一ヵ村を含む地域と考えられる。


三宅村
みやけむら

[現在地名]関宮町三宅

現関宮町域の東端に位置する。中心集落は八木やぎ川中流部北岸の沖積地に発達、南方対岸には向三宅むこうみやけの小集落がある。地内を山陰道が横断する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ミやけ神宮寺」とみえる。天正五年(一五七七)の万松庵領徳安名の年貢米請取日記(白岩文書)のなかの一筆に「一段三斗五升わたたいミやけのむかひ也三宅主計助」と記される。三宅主計助は永禄四年(一五六一)二月吉日付白岩殿宛の契状(同文書)に三宅左京進信友・同石見守宗善とともに署名している宗勝で、この三人は幼少の亀寿丸に代わって署名したという。


三宅村
みやけむら

[現在地名]浜田市治和町ちわちよう

周布すふ川左岸に位置し、東は下原井しもはらい村、西は西にし村、北は津摩つま村。山陰道が通り、当村平野ひらのには茶屋と二里塚榎があった(延享三年「巡見使案内道筋手引帳」県立図書館蔵)。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名はみえず、正保四年(一六四七)以前に西村から分村して成立し、同年の古田領郷帳では高二〇四石余、西村へ入と注記がある。


三宅村
みやけむら

[現在地名]豊岡市三宅

出石いずし郡に属し、香住かすみ村の北、穴見あなみ川の中流域に位置する。西は出石・城崎きのさき郡境。「播磨国風土記」揖保いぼ郡の項に越部こしべ(現新宮町)は但馬国三宅の民が移住したものとあり、当地とも考えられるが、但馬には養父やぶ郡にも三宅(現関宮町)がある。古代には穴見郷(「和名抄」では安美郷)に属した。小字トウ屋敷やしき周辺から白鳳期寺院の瓦や鴟尾片および基壇の一部が出土。


三宅村
みやけむら

[現在地名]姫路市飾磨区三宅しかまくみやけ一―三丁目・飾磨区野田町しかまくのだちよう栗山町くりやまちよう安田やすだ一―四丁目・手柄てがら一―二丁目

飾東しきとう郡に所属。野田川上流右岸の平坦な沖積平野上に位置し、村内の一部は町場化して三宅町となっている。「播磨国風土記」餝磨しかま郡の条の末尾に「餝磨の屯倉」がみえる。同書によると、仁徳天皇の世に意伎おき・出雲・伯耆・因幡・但馬の国造が召喚された際、お召しの使いを水手として京に向かったため罪を得たが、播磨国へ退去して贖罪のために水田を造成し、そこで作った稲を収納する御宅を飾磨の御宅と名付けたという。


三宅村
みやけむら

[現在地名]佐伯町加三方かみがた

王子おうじ川中流域に臨む金子かなご山北麓にあり西は大方おおかた村、東はかべ村、南は殿谷とんだに(現赤磐郡熊山町)。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄三宅村とある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二〇一石余。「備陽記」では田畠一五町一反余、家数二六・人数一五六、岡山城下京橋きようばしまで道程六里二四町、池三。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高三五八石余、家老土倉四郎兵衛の給地。田高一八八石余・一二町三反余・物成一三五石余、畑高二六石余・二町七反余・物成一六石余、家数三二、うち本村二七・三軒屋さんげんや(数値が合わないが史料のまま)、すべて寺山てらやま村の本久ほんきゆう寺檀家、人数一三七、牛一二、宮一(春日大明神)、百姓自林三町余・入会野山一五町、土橋一、池三、木挽一。


三宅村
みやけむら

[現在地名]守山市三宅町

大林おおばやし村の東に位置。守山と湖岸の志那しな(現草津市)を結ぶ志那街道沿いに開けた。村名は古代屯倉が置かれたことによるとされ、市三宅いちみやけ(現野洲郡野洲町)と区別するため山城淀藩領にちなんで淀三宅とも称した。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「千参百拾八石九斗八升 結薗三宅」とある。寛永石高帳によれば高一千一六六石余で山城淀藩領。反別は田一千一二九石余・畑三六石余(慶安高辻帳)。守山宿への助郷高は一千一六六石余であったが、文政七年(一八二四)には四〇八石が以後二〇ヵ年の休高として認められ、嘉永二年(一八四九)にも三五〇石が以後一五ヵ年の休高として認められた(守山甲共有文書)


三宅村
みやけむら

[現在地名]上中町三宅・仮屋かりや市場いちば

九里半くりはん街道に沿い、熊川くまがわ寄りから仮屋・三宅・市場の集落が並ぶ。正保郷帳・天保郷帳・旧高旧領取調帳では三宅村一村で高付されるが、実態は各々独立しており、幕末には三宅は九一四石余、仮屋は三九三石余、市場は二二〇石余であったという(上中町史)。正保郷帳によれば田方一千三四七石余・畠方一八四石余。

中世には三宅庄として推移し、「若狭国守護職次第」によれば、建武三年(一三三六)七月二五日(あるいは五日)、尾張式部大夫(斯波家兼)が小浜へ入部し、脇袋わきぶくろなどとともに三宅を焼いている。


三宅村
みやけむら

[現在地名]銚子市三宅町

高野たかの村の北西に位置する。「和名抄」の海上うなかみ郡三宅郷の遺称地とされる。延宝二年(一六七四)の裁許状(島田家文書)に村名がみえ、正明寺しようみようじ村などと野論を起こしている。同六年当時は旗本松平領で、岡野台おかのだい村などとともに白石鶏沢しらいしとりさわの谷地の新開を出願し許可されている(宮内家文書)


三宅村
みやけむら

面積:五五・五〇平方キロ

三宅島および大野原おおのがはら島などの小島からなる。大正一二年(一九二三)、近世以来の神着かみつき伊豆いず伊ヶ谷いがや阿古あこ坪田つぼたの五ヵ村に島嶼町村制が適用され、昭和一五年(一九四〇)普通町村制に移行。


三宅村
みやけむら

[現在地名]板柳町五林平ごりんだい

北は五林平ごりんたい村に接する。貞享四年(一六八七)の検地帳に五林平村支村三宅村として、田方がなく畑方八反五畝九歩、畑屋敷合せて一町二反六畝五歩、村高八・三八七石、百姓一四人とある。享保一一年(一七二六)本村に取立てられた(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)


三宅村
みやけむら

[現在地名]亀岡市三宅町

年谷としたに川を境に東は柏原かせばら村、西は古世こせ村に挟まれる。亀山かめやま城築城の際、村内の一部を城下に組み入れて三宅町がつくられた。

三宅の名は、「屯倉」によるといわれる。村内に式内社の三宅神社があり、国衙または郡家のあった所と推定される。


三宅村
みやけむら

[現在地名]丹後町三宅

徳光とくみつ村の北東、竹野川左岸に位置し、背後は山、東方前面に竹野川沿いの水田が開ける。村内を間人街道が通る。

慶長検地郷村帳に高八八・八八石「三宅村」と出るが、延宝九年(一六八一)の延高で一二一石余となった(天和元年宮津領村高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三宅村」の意味・わかりやすい解説

三宅〔村〕
みやけ

東京都,伊豆諸島三宅島全域を占める1島1村の村。三宅支庁に属する。 1956年阿古村,坪田村と合体。高温多湿の亜熱帯気候で,年降水量は 3000mm前後。暴風回数も多く,気象変化が激しい。近世は流刑地であった。農・漁業が中心で,観葉植物や野菜を中心とした農業が行われ,テングサとくさやの干物は特産。東京から定期船があり,東京国際空港 (羽田空港) からの航空便がある。富士箱根伊豆国立公園に属する。面積 55.26km2。人口 2273(2020)。

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