日本歴史地名大系 「清寿院跡」の解説 清寿院跡せいじゆいんあと 愛知県:名古屋市中区門前町清寿院跡[現在地名]中区大須二丁目七(なな)ッ寺(でら)の北にあった。富士山観音(かんのん)寺または浅間(せんげん)寺と称し、修験道当山派。本尊は伝空海作正観世音菩薩木像。尾張・美濃二国の修験の先達で、富士(ふじ)権現社すなわち富士浅間社の別当を勤めた(府城志)。慶長六年(一六〇一)正月、村瀬大円坊良清は清須(きよす)城主松平忠吉から修験頭に任命され、併せて軍見役を兼務することとなった。同一三年徳川義直より領内の当山・本山両派の修験頭を命じられた。同一五年南寺(みなみてら)町に移ったが、寛永一六年(一六三九)浅間社地と住居地とを拝領。寛文七年(一六六七)閏二月、藩命に基づき清寿院と称した(名古屋寺社記録集)。別に、移転当時は宝寿(ほうじゆ)院と号し、寛政年間(一七八九―一八〇一)頃清寿院と改めたとする説もある(名古屋神社誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by