愛知県西部の市。東は名古屋市に接する。2005年7月清洲(きよす)町,新川(しんかわ)町,西枇杷(にしびわじま)町が合体して成立し,09年10月春日(はるひ)町を編入した。人口6万5757(2010)。
清須市中部の旧町。旧西春日井郡所属。人口1万9122(2000)。濃尾平野南東部に位置し,JR東海道本線,名鉄名古屋本線が通じる。東名阪自動車道のインターチェンジがある。かつて織田信長の居城にもなった清須城を中心に栄えた。町の中央部を五条川が南流し,古くから米作をはじめ,ホウレンソウ,ゴボウ,ニンジンなどの野菜栽培の盛んな地域で,ハウス栽培が行われる。近年名古屋市のベッドタウンとして住宅地化が進む。朝日地区から北の旧春日町にかけて朝日貝殻山貝塚(県史跡)があり,弥生時代の出土品を展示する貝塚資料館もある。町の中央部には清須城跡の清洲公園があり,春に桜まつりが催される。
執筆者:萩原 毅
尾張国の城下町,近世は宿駅。14世紀中ごろ成立の《神鳳鈔》に清須御厨(みくりや)とみえるのが地名の初出。1478年(文明10)守護所が設けられて以来,1609年(慶長14)11月名古屋築城開始までの間,清須城は尾張国政の中心地で織田・豊臣・徳川3氏の重要拠点であった。1594年(文禄3)町民の総戸数2729軒,3年間の移住戸数1198軒に及ぶ繁栄ぶりである。名古屋への移転は住民,建物はもちろん約50の町名から橋名までも移され,後年,清須越しという。城内をはじめ跡地は周辺の各村によって開墾され,村高2278石余の新田村として再生した。1671年(寛文11)戸口は702軒,3767人。東海道と中山道を結び将軍上洛や朝鮮・琉球使節の往来,11大名家の参勤交代路の美濃路の宿として本陣1,脇本陣2のほか,1844年(弘化1)旅籠屋が15軒あった。飯盛女がおかれて揚屋・置屋も40軒ほど増加し,宿場町として繁盛した。86年5月,東海道本線清洲駅が設けられ,89年清洲町となる。
執筆者:小島 広次
清須市南部の旧町。旧西春日井郡所属。人口1万8556(2000)。町名は1787年(天明7)に庄内川の洪水を防ぐために開削された新川に由来する。濃尾平野中央部に位置し,中京工業地帯に属する工業地域で,食品,機械,化学などの工場が多い。新川をはさんで東を庄内川,西を五条川が流れ,平均標高3m前後の低地域のため,現在も水害対策が進められている。農業も盛んで,野菜,水稲,花卉などの栽培が行われる。名鉄名古屋本線が通じ,須ヶ口駅で津島線を分岐する。
清須市東端部の旧町。旧西春日井郡所属。人口1万7215(2000)。濃尾平野南東部に位置し,庄内川をはさんで名古屋市に接する。15世紀から17世紀にかけて守護代織田氏の小田井城があった。1614年(慶長19)に枇杷島青物市が開設され,以来1955年名古屋市に移転するまで中部日本最大の青果市場として発展してきた。名古屋市の衛星都市化が進み,電機,機械器具の生産も伸長している。JR東海道本線,名鉄犬山線・名古屋本線,国道22号線が通じる。小田井城跡は公園になっている。
清須市北部の旧町。旧西春日井郡所属。人口8320(2005)。1990年町制。濃尾平野の中央部に位置し,町域の中央部を五条川が南流する。肥沃な沖積低地が広がり,農業の盛んな地域で,尾張ダイコンの特産地として知られてきたが,1970年ころからはニンジン,ホウレンソウなどの栽培に転換しつつあり,酪農や養鶏も営まれている。名古屋市と一宮市の中間に位置し,1963年名神高速道路一宮インターチェンジに通じる国道22号線(名岐バイパス)が開通して,自動車関係,繊維,食品などの工場の進出や住宅建設が進み,人口が増加している。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛知県北西部にある市。2005年(平成17)、西春日井(にしかすがい)郡西枇杷島町(にしびわじまちょう)、清洲町(きよすちょう)、新川町(しんかわちょう)が合併して市制施行、清須市となる。2009年西春日井郡春日町(はるひちょう)を編入。市域は尾張平野中央部の平坦地に広がる。南東の名古屋市西区・中村(なかむら)区との境を庄内(しょうない)川が、中央部を新(しん)川がそれぞれ南西に流れ、北部、西部を南流してきた五条(ごじょう)川が、市の南端部で新川に合流。南東―北西方にJR東海道本線、東海道新幹線、名古屋鉄道本線が走る。東海道本線枇杷島(びわじま)駅から東海交通事業城北線が分かれ、名古屋鉄道本線から分岐する犬山(いぬやま)線、津島(つしま)線が通る。北部を名古屋第二環状自動車道、国道302号が、東部を国道22号が走り、名古屋第二環状自動車道の清洲(きよす)東、清洲西のインターチェンジがある。なお、市名は市内の「清洲」の地名によるが、江戸時代前期頃まで、清洲は「清須」と記されることが多く、新市名はこの用字を採用。
五条川左岸の朝日(あさひ)を中心に、名古屋市西区にまたがる貝殻山貝塚(かいがらやまかいづか)は、弥生前期の標式土器(貝殻山式土器)が出土したことで知られる。中期の方形周溝墓群、後期の環濠集落も検出され、国指定史跡。14世紀中頃成立の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に伊勢神宮内宮領の「清須御厨(きよすみくりや)」がみえる。1478年(文明10)頃、尾張国2郡(海西郡・愛智郡)の支配権を獲得した守護代織田敏定は、守護所を清須に移し、1483年には守護斯波義良を清須城に迎えた。1555年(弘治1)守護代家を滅ぼした織田信長は清須城に入り、これを本城とする。守護所移転以来、清須は尾張の中心地となり、城下も地方都市として発展していたとみられる。関ヶ原合戦後、清須城には徳川家康の9男義直(よしなお)が入る。しかし、井水の便が悪く、低湿地で水害の恐れがあったため、家康は義直の居城を名古屋に移すことを決定。1610年(慶長15)清須城下の武家屋敷、寺社、町家、住民から、町名、橋名に至るまで、ことごとく名古屋城下に移転させた(清洲越(きよすごし))。清須城下は一挙に衰退したが、1616年(元和2)に東海道と中山道を結ぶ美濃(みの)路の宿場として再び賑わった。清須の東方、庄内川右岸の西枇杷島町小田井(おたい)地区は名古屋宿と清須宿の間に位置する美濃路の要衝で、織田敏定の築城と伝える小田井城があった。1611年(慶長16)青物などを扱う問屋ができ、1622年(元和8)枇杷島橋が架設されてからは毎日市が立つようになった。市場は橋詰や堤上に商家が並び、名古屋城下の台所を預かって繁盛する。18世紀ごろには問屋が38軒に増え、名古屋の城下町に販売する市場特権を有し、城下の延長のような市街景観を呈した。南部の新川地区は清須城外堀の外側、美濃路から津島路への分岐点の須ヶ口(すかぐち)に盛り場があり、遊女町もできていた。旧春日町地区は江戸時代から昭和初期まで、全国にその名を知られた宮重大根(みやしげだいこん)発祥の地として著名。幾度となく洪水を繰り返す庄内川の治水のため、1787年(天明7)分流路として比良(ひら)(名古屋市西区)の大蒲(おおがま)沼から伊勢湾の榎津(えのきづ)(同中川区)までを結んで新川が開削されている。
近年は、名古屋のベッドタウンとして市街地化が著しい。また、紡績をはじめパルプ、食品、機械などの工業が盛ん。例年6月に行われる尾張西枇杷島まつりには、5輌の山車が練り歩く。面積17.35平方キロメートル、人口6万7352(2020)。
[編集部]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…しかし78年幕府は斯波義敏の子義良(よしすけ)を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。敏定は尾張に入部して清須に拠り,敏広方は美濃の斎藤妙椿の援をうけてこれに対決した。このとき下津城は焼失した。…
…濃尾平野南東部に位置し,東海道本線,名鉄本線が通じる。かつて織田信長の居城にもなった清須城を中心に栄えた。町の中央部を五条川が南流し,古くから米作をはじめ,ホウレンソウ,ゴボウ,ニンジンなどの野菜栽培の盛んな地域で,ハウス栽培が行われる。…
※「清須」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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