渋民村(読み)しぶたみむら

日本歴史地名大系 「渋民村」の解説

渋民村
しぶたみむら

[現在地名]玉山村渋民

北上川右岸、奥州街道に沿う。南東は玉山村、南は門前寺もんぜんじ村、北は馬場ばば村・芋田いもだ村。近世初頭と思われる三月二五日の南部利直黒印状(盛岡一方井文書)に、渋田味助一の名がみえる。正保国絵図に村名がみえ、高四四石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高一一一石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ九分五厘一毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方四二石余・畑方四四石余。「邦内郷村志」では蔵分一二四石余・給分一一三石余、家数一〇六、馬三一四。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数一一六、うち渋民町六八で、枝村は苅待かりまつ五・山屋やまや五・狐久保きつねくぼ四・長渡ながわたり五・越渡こえど六・岩沢いわのさわ二・寺沢てらざわ一・細沢ほそざわ一・合羽沢かつぱざわ一・手代沢てしろざわ一・米田まいた六・又久保またくぼ二・焼山沢やけやまざわ一・なかさわ一・芋田沢いもたさわ二・昼久保ひるくぼ三・鴨翦かもそり二。「管轄地誌」では田二七町余・畑一五七町六反余、宅地その他計一九七町九反余、家数一二六・人数六四一、馬一〇九、人力車七。字えきに掲示場が置かれ、大前田おおまえだ鶴塚つるづか一里塚がある。明治一七年(一八八四)以降の渋民駅地割図(佐藤家蔵)では街道を中心に家数一一六がみえる。

盛岡から奥州街道を下った最初の宿場で、町場が形成され、渋民町とも枯杉かれすぎともよばれた。


渋民村
しぶたみむら

[現在地名]大東町渋民

大原おおはら村の西にあり、中央を東から西へ砂鉄さてつ川が貫流し、西端で興田おきた川が合流する。南東は曾慶そけい村。元亀二年(一五七一)七月二日の葛西晴信宛行状写(宮城鈴木文書)に「岩井郡渋民村」とみえ、同地のうち五千刈が大崎氏との合戦の功により加増分として鈴木丹波守に宛行われている。天正一六年(一五八八)六月二日には浜田安房守の反乱の際の軍功により、当村内三千刈が鳥畑主水に宛行われた(「葛西晴信知行宛行状」大原鳥畑文書)。慶長四年(一五九九)には当村と中蔵ちゆうぞう(現不明)両所の年貢として本砂金一枚七分五厘・砂金三匁三分の計一枚四匁五厘が伊達氏へ納められた(同六年「伊達政宗年貢請取黒印状」伊達家文書)。年未詳の伊達領内領知日記(同文書)には「しぶたみの内 中島太郎左衛門あけち」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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