日本歴史地名大系 「温湯村」の解説 温湯村ぬるゆむら 青森県:黒石市温湯村[現在地名]黒石市温湯黒石城下東南の出湯の村。北は蛾虫(がむし)坂、東は浅瀬石(あせいし)川を隔て袋(ふくろ)村、西は築館(つきだて)村に続く。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「熱後湯(ぬるゆ)」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀(ひらか)郡新田に一七九石とあり、慶安年間(一六四八―五二)の絵図(黒石地方誌)では「温湯 十七軒」とある。温湯は「鶴羽立」「鶴泉」ともよばれ、江戸中期以降に書かれた鶴泉記(山形郷土物語)に由来が記され、傷ついた鶴が蘆原に降り、快癒して飛び去ったのを神山右仲なる人が見て鶴羽立(つるはだち)と名付けたという。 温湯村ぬるゆむら 大分県:大分郡湯布院町温湯村[現在地名]湯布院町川上(かわかみ)塚原(つかわら)村の南、由布(ゆふ)岳南西麓に位置する。怒留湯村とも書いた(豊後国志)。戦国期の由布院に大友家臣の怒留湯(奴留湯)氏がいたが(フロイス「日本史」、天正一六年閏五月二六日「大友義統書状」大友家文書録など)、当地を本貫とした在地武士であろう。怒留湯氏は天正一〇年(一五八二)頃にはキリスト教に入信しており、その領地には教会も作られていた(→由布院)。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)には怒留湯村と岡(おか)わ村が並記されてみえ、高六一二石余。小倉藩慶長人畜改帳にも怒留湯村とあり、家数四二・人数一一四(うち肝煎一・本百姓八・名子七)、牛二〇・馬一五、元和八年(一六二二)の高は一九五石余、家数二三・人数一二〇(うち本百姓・小百姓一二・名子一八)、牛一〇・馬七(小倉藩元和人畜改帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by