日本歴史地名大系 「源藤」の解説 源藤げんどう 宮崎県:宮崎市源藤村源藤建久図田帳の八条女院領国富(くどみ)庄の一円庄のなかに地頭平五の所領として源藤六丁とみえる。源藤は三郡にまたがる国富庄の宮崎郡の所領単位で、大淀川の南岸を流れる八重(やえ)川と古城(ふるじよう)川の合流点一帯と推定される。南北朝時代、日向の国大将として下向した畠山治部大輔(直顕)は北朝方に在地勢力をつけるため、伊東・土持一族に国富庄の各村を宛行ったという(日向記)。永和四年(一三七八)には源藤六町は伊東祐重・祐安の所領となっている(同書)。明徳二年(一三九一)に島津元久が日向国守護に任じられると、日向の国人である伊東氏や土持氏との対立が深まる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報