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島津元久 しまづ もとひさ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

島津元久 しまづ-もとひさ

1343-1411 南北朝-室町時代の武将。
康永2=興国4年生まれ。島津氏久の長男。島津氏7代。総州家の島津伊久(これひさ)とあらそい薩摩(さつま)に進出。清水城をきずいて拠点を鹿児島にうつし,菩提寺の福昌寺を建立。大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)にくわえ,応永16年薩摩守護もかね,南九州3国守護を統一。領国経営をかためた。応永18年8月6日死去。69歳。初名は孝久。通称は又三郎。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

島津元久

没年:応永18.8.6(1411.8.25)
生年:康永2/興国4(1343)
南北朝時代の薩摩(鹿児島県)・大隅(同)・日向国(宮崎県)守護。氏久の嫡子。陸奥守。大隅国において肝付氏らを被官化し,段銭を賦課するなど同国の実効支配を強化,応永11(1404)年に大隅・日向両国守護に補任された。さらに,薩摩国守護島津伊久とその子守久の抗争の末に伊久から家宝類を譲渡され,同16年には薩摩国守護にも補任されて南九州3カ国守護職の統一を果たした。鹿児島に清水城を築き,守護家の本居を鹿児島郡に確定,また親族の石屋真梁を開山として菩提寺,福昌寺を創建し,島津家の守護領国の基盤を確定した。応永17年には,将軍足利義持への謁見のため上洛している。<参考文献>山口隼正「薩摩国守護」「大隅国守護」(『南北朝期九州守護の研究』)

(福島金治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の島津元久の言及

【大隅国】より

…旧国名。隅州。現在の鹿児島県の一部。鹿児島湾奥の海岸部と内陸部,大隅半島部,半島西南海上の種子島・屋久島等の島嶼部の三つからなる。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。はじめ日向国の一部をなし,襲国(そのくに)ともよばれ,熊襲(くまそ)・隼人(はやと)の根拠地とみなされていた。割拠の豪族として大隅直(あたい)や曾君(そのきみ),加士伎県主(かしきあがたぬし),肝衝(きもつき)などの名があり,大隅隼人の首領大隅直の地盤と目される半島東南部肝属(きもつき)川一帯に高塚式古墳が少なくない。…

【薩摩国】より

…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…

【島津氏】より

…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…

※「島津元久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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