朝日日本歴史人物事典 「源雅賢」の解説
源雅賢
生年:久安4(1148)
平安末から鎌倉初期の公家,楽人。郢曲源家の嫡流で,源通家と皇嘉門院(賀陽門院とも)雑仕真木屋の子。父の早世により祖父資賢の子となる。永暦1(1160)年叙爵,上総守などを経て嘉応2(1170)年右少将,養和2(1182)年資賢が権大納言を辞すのとひきかえに右近中将,元暦2(1185)年蔵人頭,文治3(1187)年従三位。この間三度の解官と境外追放を体験。後白河法皇に「(家)重代なり,沙汰に及ばず」と今様について太鼓判を押された(『梁塵秘抄口伝集』)雅賢は,承安4(1174)年の今様合で勝ちを収めるが,負けた泰通でさえ「優美」と評された(『吉記』)。建久3(1192)年持病に法皇の死が重なり出家,死去。
(小川寿子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報