デジタル大辞泉
「日本史」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
にほん‐し【日本史】
- 〘 名詞 〙
- ① =にほんれきし(日本歴史)
- [初出の実例]「将来はある形の日本史(ニホンシ)を書いて見たい」(出典:黒い眼と茶色の目(1914)〈徳富蘆花〉四)
- ② 高等学校社会科の科目名。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本史
にほんし
日本にいつ頃から人類が定住し始めたかについては,1~3万年前の石器が発見されているものの確証はない。伝承では前660年,初代の神武天皇の即位をもって建国のときとしているが,史料では最初の統一国家である大和朝廷が出現したのは 4世紀末,あるいは 5世紀初頭である。この大和期に仏教が朝鮮半島を経由して伝来した。以後数世紀の間,日本は中国文化から強い影響を受けた。8世紀には中国を模倣した宮廷が奈良,続いて京都に誕生した。しかし 9世紀になると日本は大陸とのつながりを断ち始め,学んだものを翻案するようになった。政治的には,天皇はしだいに廷臣たちに従属するようになった。なかでも有力貴族の藤原氏は 11世紀を通じて絶大な勢力を保った。
しかし同時に,地方では武士階級が勃興し,排他的な政治力を蓄えつつあった。建久3(1192)年,源頼朝は初の武家政権である鎌倉幕府を樹立した。この政体が,途中幾度かの内部抗争を経ながらも慶応3(1867)年まで続くことになる。鎌倉時代(1192~1333)の文永11(1274)年と弘安4(1281)年の 2度にわたるモンゴルの侵略(元寇)は,偶然の台風によって撃退されたが,この侵攻に備えるための負担が鎌倉幕府の倒壊につながった。続く将軍足利氏による室町時代(1336~1573)は有力氏族による抗争と南北両朝の並立を特徴とする。織田信長によって緒についた政治的統一は天正18(1590)年,豊臣秀吉によって達成された。しかし,完全な意味での国家の統一は秀吉の死後,徳川家康の関ヶ原の戦い(1600)での勝利を待って実現した。
江戸時代(1603~1867),幕府は対外的孤立政策をとり,天文18(1549)年,イエズス会のフランシスコ・ザビエルが渡来して以来改宗した国内のキリスト教徒は迫害され,外国人は追放され,日本人の海外渡航も禁止された。政府の安定は数世紀ぶりに日本に平和をもたらした。海外との隔絶(鎖国)は固有の文化を開花させたが,それは一方で社会の停滞をもたらした。ことに勃興する商人階級が制約に耐えきれなくなった。19世紀の中頃には幕府はもはや欧米の貿易商人たちを追い払うことができなくなり,政権への支持も崩壊した。
明治1(1868)年,天皇の支配権回復(王政復古)が宣言され,明治天皇が即位した。しかし,実際の政治権力は南西部出身の一群の若い指導者たちが掌握していた。彼らは新しい理念と技術を求めて,西ヨーロッパ世界のいたるところに視察団を派遣し,日本の政治・経済・社会制度は西ヨーロッパを模範として体系的に近代化された。その頂点を画するのが 1889年の大日本帝国憲法公布である。
日本はその後,帝国主義的傾向を強め,中国(日清戦争,1894~1895),ロシア(日露戦争,1904~05)との戦争さらには朝鮮併合(日韓併合,1910)へと突き進んだ。1930年代の世界的な経済困難は,日本の対内的には軍の独裁,対外的には侵略という傾向をいっそう強めた。日本は 1931年,中国から満州の支配権を奪ってこれを独立させ,ナチス・ドイツと同盟し(日独枢軸),1941年にはアメリカ合衆国,イギリスに宣戦布告し太平洋戦争に突入,ハワイとフィリピンのアメリカ軍を攻撃するとともに東南アジアのヨーロッパ諸国植民地を占領した。緒戦では成功を収めたが,日本軍はアメリカならびに連合軍によって徐々に押し戻された。1945年,アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下,両都市は灰塵に帰した。その直後,日本は連合国に降伏した。
アメリカによる戦後の占領により 1947年日本国憲法が与えられ,日本の民主化が進められた。官民一体となった長期的視点に立った通商政策により,日本の製造業は欧米を含むあらゆる海外市場で優位に立った。しかし,1980年代には,貿易不均衡が欧米諸国との緊張を引き起こし始めた。この間,1970年代に日本の経済成長は輸入石油価格の高騰と世界的な景気後退とによって一時的に鈍化した。1980年代の継続的な成長により,日本は 1990年代にも輸出を増加させ続ける。この時点で,日本はすでにアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になっていた。しかし 1980年代末のバブル経済の崩壊後,成長は緩慢となり,成長を牽引してきた自由民主党が野に下るなど,政治的にも不安定となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本史
にほんし
Historia de Iapam
16世紀の後半に三十数年在日したイエズス会司祭ルイス・フロイスが執筆した、ザビエルの来日以後1592、1593年(文禄1、2)ごろまでの「日本カトリック教会史」ないし「日本布教史」。単なる布教史にとどまらず、織田信長や豊臣(とよとみ)秀吉のような天下人の動静から、天草(あまくさ)・五島(ごとう)列島などの庶民の生活に至るまで詳細に描写されていて織豊時代の第一級の史料である。その原稿は1835年にマカオで焼失したが、18世紀のなかばにそこで謄写された文書が、『日本史』あるいは『マカオ司教区史稿』『日本司教区史稿』などの題名で離れ離れになって各地を転々とし、1980年に日本語訳が完成し、1984年にポルトガル語の復刻版の刊行が終結した。
[松田毅一]
『松田毅一・川崎桃太訳注『フロイス・日本史』全12巻(1977~1980・中央公論社)』▽『José WickiHistoria de Japam, 5 vols. (1976~1984, Lisboa)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
日本史 (にほんし)
Historia de Japam
イエズス会士フロイスが記した1549年から94年までの編年体の日本布教史。自筆の原稿は発見されていないが,一部分を除き,18世紀の写本が存在する。全体の構成は1593年11月12日付フロイス書簡によると,第1巻〈日本総記〉(今日不明),第2巻〈1549年~1578年〉,第3巻〈1578年~1589年〉となる。だが実際の記述は94年2月まである。フロイスは1583年秋に執筆を命じられると直ちに着手し,84年に第1巻,86年に第2巻,93年には第3巻を完成し,推敲の段階にあったが,日本巡察師バリニャーノは原稿を検閲した結果,冗長にすぎるとして短縮を要望し,ヨーロッパに送付しなかった。そのため本書は近年まで未刊のままであった。宣教師の布教活動と成果のみならず,戦国時代末期から安土桃山時代の日本社会の諸様相を今日に伝える外国人の証言として貴重で,邦訳がある。
執筆者:岸野 久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
日本史(フロイス「日本史」)
にほんし
解説 イエズス会士フロイスが記録した日本布教史で、一五四九年から一五九四年にわたる。
活字本 平凡社版(五冊)はドイツ語本からの訳書、中央公論社版(一二冊)はポルトガル語原文からの訳書。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日本史
にほんし
イエズス会宣教師フロイスが執筆した日本キリシタン教会史。1583年(天正11)イエズス会準管区長コエリョから執筆を命じられ,ザビエル来日の1549年(天文18)から94年(文禄3)頃までを記す。フロイスは97年(慶長2)長崎で死去する直前まで取り組んだ。原稿は冗長にすぎるとして巡察師バリニャーノに評価されず,マカオのイエズス会文書館に埋蔵され,1835年焼失。現在伝わるのはヨーロッパ各地に分散した写本で,1980年(昭和55)松田毅一らによって編年史の邦訳が実現した。教会に不都合なことは記されていないが,織豊政権下のキリシタンの動向や日本社会の様相が詳しくうかがえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の日本史の言及
※「日本史」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」