日本歴史地名大系 「濁谷村」の解説 濁谷村にごたにむら 鳥取県:日野郡日野町濁谷村[現在地名]日野町濁谷板井原(いたいばら)川の支流で北流する真住(まなすみ)川中流域にある谷間の村。北の高尾(こお)村で出雲街道より分岐し、真住川沿いから明地(あけち)峠(明智峠)を越え、備中国に至る道が村内を通る。北から南へ並ぶ下町(しもつちよう)・濁谷・大町(おおまち)の三集落からなるが、「伯耆志」は下町を支村と記す。正徳元年(一七一一)の郷村高辻帳に「古ハ湯谷村」と注される。拝領高は一七六石余、本免は六ツ二分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三二一石余、竈数四二。「伯耆志」では林七九町六反余、家数四三。藪役五〇匁・川役三匁が課されていた(日野郡史)。産物の紙は真住紙とよばれ、江戸時代に因幡の製紙技術を導入して始めたといわれる。往時には製造戸数二〇余戸、年間二〇〇束ほどを製造したが、煙草生産に圧迫され、大正末年には一戸と減少した(同書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by