( 1 )語源説としては、「御府内備考‐六」に「按に、下町は御城下町と称せる略なるべし」とあるところから、「御城下町」の略とする説がある。
( 2 )現在では「山の手」と対になることばであるが、かつては「海手」という言葉があり、ある段階で、「海手」「山の手」という対立が、「下町」「山の手」という対立に替わったらしい。
( 3 )古い例としては、寛文二年(一六六二)一一月の小川新田(武蔵野台地のほぼ中央)の訴状に見られる「新田に而瓜作少宛仕候、下町瓜といやかしにて壱間山之手に壱間御江戸に瓜といや二間」があげられる。ここでは、「かし(河岸)」が「山の手」と対で用いられており、「下町」は江戸ととらえられていたことがうかがえる。
( 4 )範囲については、「御府内備考」に「日本橋川筋より北の方、神田堀内に属する町名並里俗呼名、此辺おしなべて下町と云」とあり、「江戸府内絵本風俗往来」には「日本橋より数町四方、東は両国川、西は外濠、北は筋違橋・神田川、南は新橋の内を下町と唱え」とある。また、宝暦七年(一七五七)頃、白山、牛込、浅草の人々にとって、神田・日本橋の辺は「下町」であり「江戸」であったのが、文化一一年(一八一四)には、白山・牛込・浅草も神田・日本橋と同一地域だと考えるようになったことがうかがえる。
都市の商工業地域でおもに低平な沖積地域を、山手(やまのて)の住宅街に対して下町という。東京都では区部のうち、東部の低平な沖積地の部分をいう。赤羽(あかばね)から品川を結ぶJR京浜東北線をほぼ境として、その東方に広がる地域。狭義には江戸時代に町屋を形成し、1878年(明治11)に区制を敷いた地域で、現在の千代田、中央、港、台東(たいとう)、江東(こうとう)、墨田(すみだ)の各区の低地部をさす。
世界的にみても、下町と語源的に近いダウンタウンは水陸交通に恵まれ、商工業地域として発達し、中心商店街、都心を意味する語に用いられている。東京においても、下町は江戸時代から商工業の発達した町人の街で、山手の住宅地と対応している。
以下、東京の下町について述べる。
[沢田 清]
山手が洪積世(更新世、約100万年前から1万年前までの地質時代)に堆積(たいせき)された洪積層からなる洪積台地であるのに対し、下町は沖積世(完新世、1万年前から以後)に堆積された沖積層からなる沖積低地である。東京層とよぶ洪積層が砂質で黄褐色であるのに対し、有楽町(ゆうらくちょう)層などとよぶ沖積層は泥質で青灰色を呈し、多くの貝化石や腐植物が含まれている。縄文前期に海が進入して下町は海面下となったが、中期から海が退き始めて陸化し、標高1~4メートルの低地となった。しかし、昭和以降の急速な工業化に伴い、地下水の過剰なくみ上げによって地盤が収縮して沈下し、ゼロメートル以下の所が広がった。地盤が軟弱なため、関東大震災では、山手での全壊率5%以下なのに対し、下町では沖積層が厚いほど全壊率が高く、隅田(すみだ)川、荒川の埋没谷では50%以上にも達した。1970年代に入ると、法律や条例により地下水のくみ上げに対する規制が行われ、以後、地盤沈下は鎮静に向かっている。
[沢田 清]
1590年(天正18)徳川家康入府のとき、下町のうち隅田川以東は低湿地が多く、江戸城の東側は日比谷(ひびや)入り江とよぶ海であった。家康は城下町の建設を目ざし、1593年(文禄2)以後日比谷入り江の埋立てを始めた。それが現在の大手町、丸の内、日本橋、京橋、銀座で、整然とした道路網がみられる。丸の内は当時大名小路とよばれ25の藩邸があり、親藩、譜代(ふだい)大名が居住したのに対し、日本橋、京橋、銀座は町人の商業地として発展した。下町には多くの水路があり、河岸(かし)とよぶ船着場が各所につくられた。隅田川沿いには米蔵(こめぐら)、材木蔵など幕府の倉庫が、その下流に米、雑穀、肥料、油などを取り扱う問屋、倉庫の街ができ、日本橋には魚市場が立った。1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火後、新しい町づくりとして隅田川以東が開発され、大名の別荘、町屋、木場(きば)などで発展するようになった。明治以後、丸の内は陸軍用地となったが、三菱(みつびし)に売り渡し、1914年(大正3)東京駅開設を機に業務ビル地区となり、銀座が繁華街となった。台東・中央区は問屋を中心とする商業および日用雑貨の中小工業地区として継続されるが、隅田川以東の江東地区は近代工業の移植が行われ、近代工業地区として発展した。第二次世界大戦後、近代工業は安くて広い土地を求めて移転し、跡地は高層ビルの住宅地などに変わった。
[沢田 清]
山手がサラリーマン中心の住宅地で移動が多いのに対し、下町は自営の商工業者が多くかつては移動することは少なく、江戸の伝統、気質をよく残していた。自分の町を愛し、粋(いき)を尊び、江戸っ子のべらんめえことばや「宵(よい)越しの金は持たない」気風、心に思っていることは隠さず、ポンポンいって、あとはさっぱりする気質を今日に伝えている。神田明神、三社(さんじゃ)(浅草)、深川などの祭りを盛んにし、つげ櫛(ぐし)、江戸玩具(がんぐ)、足袋(たび)、江戸小紋(こもん)などの伝統工芸を残し、佃煮(つくだに)、海苔(のり)、人形焼などの名物をたいせつにし、さらに藪(やぶ)・更科(さらしな)・砂場(すなば)のそば、築地(つきじ)のすし、新橋のてんぷら、駒形(こまがた)のどぜう(どじょう)など江戸の味を自慢する。関東大震災、さらに第二次世界大戦で多くの古い建築を失い、大半が焼失した。しかし、随所に焼失を免れた下町情緒の濃い町並みをみることができる。人形町、浜町(はまちょう)、佃島(つくだじま)、浅草、向島(むこうじま)、富岡(とみおか)などはその典型である。しかし、自動車の急激な発展によって多くの水路が埋められ、水を失ったことは寂しい。
[沢田 清]
前述の通り、下町を狭義にとらえると、下町は隅田川以西を中心として6区をさす。しかし、東京の市街地の拡大に伴ってその範囲も広がり、江戸川以西までも加わり、一方、北方向にも拡張した。すなわち、上記6区に足立・葛飾・江戸川そして北・荒川各区が包含されて、広義にとらえられることもある。
東京駅を中心として、旧丸ノ内ビルや旧国鉄本社跡地などにはオフィスやホテルの入居する高層ビル群の建設が進められている。また鉄道発祥の地である旧新橋駅のあった汐留(しおどめ)地区も31万平方メートルの面積に巨大なオフィス街の建設が着工され、継続的な街づくりをコンセプトに発展を続けている。2011年(平成23)、丸の内・大手町、日本橋・京橋、銀座、新橋・虎ノ門などの各地区は東京都心・臨海地域としてアジアヘッドクォーター特区に指定された。その他、品川駅周辺、千代田区の低層住宅地区、中央区の百貨店跡地などでも高層ビル化が進められている。この高層ビル進展の背況には、都心部の機能の変化がある。かつては中枢管理機能のビルが中心であったが、経済の高度化によって知的生産機能も加わり、都心も生産の場となった。そして、高度技能者は生産の質を高めるために、職住近接を望むようになった。そのため、高層ビル内には賃貸住宅も多い。また、1990年代に入って地価が下落したことも、高層ビル建設に拍車をかけた。
2012年には墨田区に、高さ634メートルの東京スカイツリー(世界一高い自立式電波塔)が電波塔・観光施設として開業した。周辺に商業施設やオフィスビルなどが併設され、これらを含め東京スカイツリータウンと通称される。
東京湾岸には、ウォーターフロントの「臨海副都心」が計画された。超近代的なオフィスビル、商業施設、スポーツ施設、高層住宅や学校などがすでに建ち始めている。「職・住・学・遊」の融合を目標として、新交通システム「ゆりかもめ」、東京臨海高速鉄道「りんかい線」の2本の鉄道と幹線道路が都心に結び付いている。
隅田川を中軸として「川の手」と呼称する人もいる。「川の手」は「山の手」に対する名称である。いずれにしても河川が多く、その親水性を確保してアメニティ(快適性)と防災性を高める試みが、見沼代(みぬまだい)親水公園(足立区)をはじめ中川(葛飾区)、古川(江戸川区)、大横川(墨田区)などに沿ってなされている。一方、北・荒川・足立・葛飾・墨田・江東・江戸川各区では、小工場が多いが、閉鎖したり地方への分散も目だち、工場跡地の集合住宅化が進んでいる。かつては小規模な伝統工業がほとんどであったが、工業の高度化が進んでいる。たとえば、台東区や墨田区などのファッション関連産業(衣服・靴・ハンドバッグ・装飾品など)に代表されるように新しい工業への転換もみられる。
東京の人口が増えて、人口の地域間移動や空間利用の変容などが著しくなるとともに、人口の空洞化によって自治会などを通しての共同体意識も低下し、下町という概念は地区内外の人々の意識から薄らぎつつある。
[高橋伸夫]
『朝日新聞社編・刊『東京・下町』(1987)』▽『那和秀峻著『隅田川――流れに映る下町の哀歓』(1987・東京新聞社出版局)』▽『八木澤壮一他著『都心の土地と建物――東京・街の解析』(1987・東京電機大学出版局)』▽『横田貢著『べらんめぇ言葉を探る』(1992・芦書房)』▽『野村圭佑著『隅田川のほとりによみがえった自然』(1993・プリオシン)』▽『諸河久写真、林順信文『都電の消えた街――東京今昔対比写真(下町編)』(1993・大正出版)』▽『新潮社編・刊『江戸東京物語(下町篇)』(1993)』▽『町村敬志著『「世界都市」東京の構造転換――都市リストラクチュアリングの社会学』(1994・東京大学出版会)』▽『芦原義信著『東京の美学』(1994・岩波書店)』▽『春風亭小朝・秋元康他著、荒木経惟・高梨豊他写真『私だけの東京散歩(下町・都心篇)』(1995・作品社)』▽『田沼武能著『下町今昔物語――田沼武能写真集』(1996・新潮社)』▽『桐谷エリザベス著、桐谷逸夫訳・画『消えゆく日本――ワタシの見た下町の心と技』(1997・丸善)』▽『北畠康次著『歴史資料 東京下町の範囲の変遷図』(1997・メグミ出版)』▽『加藤昌志写真『「深川・木場」下町のぬくもり』(1998・人間の科学社)』▽『荒俣宏著、安井仁写真『江戸の快楽――下町抒情散歩』(1999・文芸春秋)』▽『山下宗利著『東京都心部の空間利用』(1999・古今書院)』▽『『ウォーキングナビ東京 山手・下町散歩』(2001・昭文社)』▽『石井實著『東京 写真集・都市の変貌の物語1948~2000』(2001・KKベストセラーズ)』
鹿児島城の南東方に広がり、東は海(鹿児島湾)に臨む。慶長六年(一六〇一)に始まる鹿児島城の築城によって中世以来城下であった
元和四年(一六一八)、松山入部まもない池田長幸によって取立てられてできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。
元禄(一六八八―一七〇四)初年改では町の長さ三町一八間、家数一二四(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家数八九、うち間口一・五―二間が二七、同二・五―三間が二六、同三・五―五間が一六、同六―一〇間が一八、同一一間および二一間が各一(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。
町人町の本町三町のうち、中町の西に続く町。城下町の下手(西)出入口にあたり、町の西端にある大木戸を出て新発田川を渡ると、
中村町の西南部、
中村三万石御代之図に下町の称がみえ、町家は東西の町筋を中心とし、その東端で直交する南北通りの東側にもある。現在の町名に当てはめて町家の軒数を示すと、大橋通一―二丁目北側一六軒、大橋通一―二丁目南側一九軒、東下町・弥生町一四軒で、計四九軒となる。安永二年(一七七三)目代横田家から巡見使に提出された「御巡見就被仰付指定」の控(目代横田家文書)によると、地高一〇石八斗六升余、うち畠六斗五升(免五ツ)、町屋敷一〇石二斗一升余(免八ツ四歩)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
広義には都市の低いほうにある町をいうことばで,高台を指す山手の対語である。東京(江戸)では京橋,日本橋から神田,下谷,浅草方面に町家が多く,人口の密集した地域が低地にあったことから,狭義にはこの地域を指す。また,都市の商工業に従事する町家が多い地域一般を指すこともある。東京の低地が山手との対比で下町と呼ばれるようになったのは17世紀であるといわれ,吉田東伍は《大日本地名辞書》で,〈江戸の山手,下町〉という呼称の起こりは,徳川家康の江戸開府のころにさかのぼれるのではないかと推測している。また,現在の小平市の農村の史料には1662年(寛文2)に野菜問屋の場所として山手,下町ということばが見られる。さらに小川顕道の《塵塚談》(1814)には,〈白山牛込辺の人,神田辺或は日本橋辺へ出る節は,下町へ行く〉,また〈浅草近辺のものは,神田日本橋辺へ出るをば江戸へ行くといひけり〉とある。19世紀初頭は神田,日本橋,京橋あたりが下町といわれ,とくに江戸市内の中心として〈江戸〉と呼ばれていたことがわかる。
江戸市内の山手地区(四谷,青山,市谷,本郷,赤坂等)にはおもに武士が住み,下町には町人が住んでいたことから,武士の文化,町人の文化がそれぞれの地域にわかれていった。下町は商工業が盛んで,経済活動の中心であるが,一方,浅草,両国等の盛場も形成されるなど,娯楽・享楽的な面でも栄えていた。そして〈江戸っ子〉ということばに象徴される,反権力性や義理人情を重んじる独特の文化と生活様式が生まれた。このことについて二葉亭四迷は〈下町育ちは山の手の人とは違ふ〉(《平凡》1907)と書いている。江戸から東京へと変わり,都市が拡大するのに伴い,下町・山手の範囲もそれぞれ広がっていき,荒川区,足立区,葛飾区,江戸川区も下町といわれるようになった。下町に商工業地区が多く,山手に住宅地が多いという構造は,現在もある程度は続いているが,生活構造の急激な変化のなかで下町の気質は失われつつある。
なお,英語のダウンタウンdowntownは,都市の低い部分=下町を指し,山手地区を指すアッパータウンupper townとの対比で使われる。前者は商業地域,後者は住宅地域を意味するが,前者にはとくに都心の商業地域をいう例がみられる。またニューヨークのマンハッタンでは,14丁目から南の海寄りの地域をダウンタウン,86丁目から北をアッパータウン,その中間をミドルタウンmiddle townと呼んでいる。
→山手
執筆者:小木 新造+山岸 健
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…主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…
…日露戦争直後の日比谷焼打事件(1905),東京市電争議(1911)に始まり,護憲運動(1912‐13),廃税運動(1912)などの都市民衆運動の展開を背景に,大正デモクラシーの動きは,第1次大戦期の東京の米騒動(1918)に至って,その頂点に達した。 1923年の関東大震災は,死者約10万人,損害55億円(内務省調査)の被害を出し,下町を中心に全市に壊滅的打撃を与えた。〈明治の東京〉は崩壊し,〈帝都復興〉とともに,以後,東京は新たな段階を迎える。…
※「下町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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