下町(読み)シタマチ

デジタル大辞泉 「下町」の意味・読み・例文・類語

した‐まち【下町】

都会で、土地の低い所にある町。多く商工業地になっている。東京では浅草・下谷・神田・日本橋・京橋・本所・深川などの地域をいう。「下町育ち」⇔山の手

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精選版 日本国語大辞典 「下町」の意味・読み・例文・類語

した‐まち【下町】

  1. 〘 名詞 〙 都会で、高台の上町に対して、低地にある町。商工業に従事する町家が密集しているあたり。特に、江戸で、武家屋敷や寺社の多かった山の手に対して、芝、日本橋かいわいから京橋、神田、下谷(したや)、浅草、本所、深川方面の町家の多い地区をいう。現代では、山の手の住宅地区に対して、その東に広がる低地一帯を呼ぶこともある。江戸時代の風情を残し、住む人の庶民的であけっぴろげな気風(きっぷ)や人情味を特色とする。
    1. [初出の実例]「朝戸明て看板てらす日の烏〈一鐡〉 膏薬かざる森の下町〈松意〉」(出典:俳諧・談林十百韻(1675)下)

下町の語誌

( 1 )語源説としては、「御府内備考‐六」に「按に、下町は御城下町と称せる略なるべし」とあるところから、「御城下町」の略とする説がある。
( 2 )現在では「山の手」と対になることばであるが、かつては「海手」という言葉があり、ある段階で、「海手」「山の手」という対立が、「下町」「山の手」という対立に替わったらしい。
( 3 )古い例としては、寛文二年(一六六二)一一月の小川新田武蔵野台地のほぼ中央)の訴状に見られる「新田に而瓜作少宛仕候、下町瓜といやかしにて壱間山之手に壱間御江戸に瓜といや二間」があげられる。ここでは、「かし(河岸)」が「山の手」と対で用いられており、「下町」は江戸ととらえられていたことがうかがえる。
( 4 )範囲については、「御府内備考」に「日本橋川筋より北の方、神田堀内に属する町名並里俗呼名、此辺おしなべて下町と云」とあり、「江戸府内絵本風俗往来」には「日本橋より数町四方、東は両国川、西は外濠、北は筋違橋・神田川、南は新橋の内を下町と唱え」とある。また、宝暦七年(一七五七)頃、白山、牛込、浅草の人々にとって、神田・日本橋の辺は「下町」であり「江戸」であったのが、文化一一年(一八一四)には、白山・牛込・浅草も神田・日本橋と同一地域だと考えるようになったことがうかがえる。


しも‐の‐ちょう‥チャウ【下町】

  1. 京都、島原遊郭内の町名。遊郭の西北の隅にあって、揚屋町の北にあたる。三筋町の一つ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下町」の意味・わかりやすい解説

下町
したまち

都市の商工業地域でおもに低平な沖積地域を、山手(やまのて)の住宅街に対して下町という。東京都では区部のうち、東部の低平な沖積地の部分をいう。赤羽(あかばね)から品川を結ぶJR京浜東北線をほぼ境として、その東方に広がる地域。狭義には江戸時代に町屋を形成し、1878年(明治11)に区制を敷いた地域で、現在の千代田、中央、港、台東(たいとう)、江東(こうとう)、墨田(すみだ)の各区の低地部をさす。

 世界的にみても、下町と語源的に近いダウンタウンは水陸交通に恵まれ、商工業地域として発達し、中心商店街、都心を意味する語に用いられている。東京においても、下町は江戸時代から商工業の発達した町人の街で、山手の住宅地と対応している。

 以下、東京の下町について述べる。

[沢田 清]

自然

山手が洪積世(更新世、約100万年前から1万年前までの地質時代)に堆積(たいせき)された洪積層からなる洪積台地であるのに対し、下町は沖積世(完新世、1万年前から以後)に堆積された沖積層からなる沖積低地である。東京層とよぶ洪積層が砂質で黄褐色であるのに対し、有楽町(ゆうらくちょう)層などとよぶ沖積層は泥質で青灰色を呈し、多くの貝化石や腐植物が含まれている。縄文前期に海が進入して下町は海面下となったが、中期から海が退き始めて陸化し、標高1~4メートルの低地となった。しかし、昭和以降の急速な工業化に伴い、地下水の過剰なくみ上げによって地盤が収縮して沈下し、ゼロメートル以下の所が広がった。地盤が軟弱なため、関東大震災では、山手での全壊率5%以下なのに対し、下町では沖積層が厚いほど全壊率が高く、隅田(すみだ)川、荒川の埋没谷では50%以上にも達した。1970年代に入ると、法律や条例により地下水のくみ上げに対する規制が行われ、以後、地盤沈下は鎮静に向かっている。

[沢田 清]

歴史

1590年(天正18)徳川家康入府のとき、下町のうち隅田川以東は低湿地が多く、江戸城の東側は日比谷(ひびや)入り江とよぶ海であった。家康は城下町の建設を目ざし、1593年(文禄2)以後日比谷入り江の埋立てを始めた。それが現在の大手町、丸の内、日本橋、京橋、銀座で、整然とした道路網がみられる。丸の内は当時大名小路とよばれ25の藩邸があり、親藩、譜代(ふだい)大名が居住したのに対し、日本橋、京橋、銀座は町人の商業地として発展した。下町には多くの水路があり、河岸(かし)とよぶ船着場が各所につくられた。隅田川沿いには米蔵(こめぐら)、材木蔵など幕府の倉庫が、その下流に米、雑穀、肥料、油などを取り扱う問屋、倉庫の街ができ、日本橋には魚市場が立った。1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火後、新しい町づくりとして隅田川以東が開発され、大名の別荘、町屋、木場(きば)などで発展するようになった。明治以後、丸の内は陸軍用地となったが、三菱(みつびし)に売り渡し、1914年(大正3)東京駅開設を機に業務ビル地区となり、銀座が繁華街となった。台東・中央区は問屋を中心とする商業および日用雑貨の中小工業地区として継続されるが、隅田川以東の江東地区は近代工業の移植が行われ、近代工業地区として発展した。第二次世界大戦後、近代工業は安くて広い土地を求めて移転し、跡地は高層ビルの住宅地などに変わった。

[沢田 清]

特色

山手がサラリーマン中心の住宅地で移動が多いのに対し、下町は自営の商工業者が多くかつては移動することは少なく、江戸の伝統、気質をよく残していた。自分の町を愛し、粋(いき)を尊び、江戸っ子のべらんめえことばや「宵(よい)越しの金は持たない」気風、心に思っていることは隠さず、ポンポンいって、あとはさっぱりする気質を今日に伝えている。神田明神、三社(さんじゃ)(浅草)、深川などの祭りを盛んにし、つげ櫛(ぐし)、江戸玩具(がんぐ)、足袋(たび)、江戸小紋(こもん)などの伝統工芸を残し、佃煮(つくだに)、海苔(のり)、人形焼などの名物をたいせつにし、さらに藪(やぶ)・更科(さらしな)・砂場(すなば)のそば、築地(つきじ)のすし、新橋のてんぷら、駒形(こまがた)のどぜう(どじょう)など江戸の味を自慢する。関東大震災、さらに第二次世界大戦で多くの古い建築を失い、大半が焼失した。しかし、随所に焼失を免れた下町情緒の濃い町並みをみることができる。人形町、浜町(はまちょう)、佃島(つくだじま)、浅草、向島(むこうじま)、富岡(とみおか)などはその典型である。しかし、自動車の急激な発展によって多くの水路が埋められ、水を失ったことは寂しい。

[沢田 清]

下町の変容

前述の通り、下町を狭義にとらえると、下町は隅田川以西を中心として6区をさす。しかし、東京の市街地の拡大に伴ってその範囲も広がり、江戸川以西までも加わり、一方、北方向にも拡張した。すなわち、上記6区に足立・葛飾・江戸川そして北・荒川各区が包含されて、広義にとらえられることもある。

 東京駅を中心として、旧丸ノ内ビルや旧国鉄本社跡地などにはオフィスやホテルの入居する高層ビル群の建設が進められている。また鉄道発祥の地である旧新橋駅のあった汐留(しおどめ)地区も31万平方メートルの面積に巨大なオフィス街の建設が着工され、継続的な街づくりをコンセプトに発展を続けている。2011年(平成23)、丸の内・大手町、日本橋・京橋、銀座、新橋・虎ノ門などの各地区は東京都心・臨海地域としてアジアヘッドクォーター特区に指定された。その他、品川駅周辺、千代田区の低層住宅地区、中央区の百貨店跡地などでも高層ビル化が進められている。この高層ビル進展の背況には、都心部の機能の変化がある。かつては中枢管理機能のビルが中心であったが、経済の高度化によって知的生産機能も加わり、都心も生産の場となった。そして、高度技能者は生産の質を高めるために、職住近接を望むようになった。そのため、高層ビル内には賃貸住宅も多い。また、1990年代に入って地価が下落したことも、高層ビル建設に拍車をかけた。

 2012年には墨田区に、高さ634メートルの東京スカイツリー(世界一高い自立式電波塔)が電波塔・観光施設として開業した。周辺に商業施設やオフィスビルなどが併設され、これらを含め東京スカイツリータウンと通称される。

 東京湾岸には、ウォーターフロントの「臨海副都心」が計画された。超近代的なオフィスビル、商業施設、スポーツ施設、高層住宅や学校などがすでに建ち始めている。「職・住・学・遊」の融合を目標として、新交通システム「ゆりかもめ」、東京臨海高速鉄道「りんかい線」の2本の鉄道と幹線道路が都心に結び付いている。

 隅田川を中軸として「川の手」と呼称する人もいる。「川の手」は「山の手」に対する名称である。いずれにしても河川が多く、その親水性を確保してアメニティ(快適性)と防災性を高める試みが、見沼代(みぬまだい)親水公園(足立区)をはじめ中川(葛飾区)、古川(江戸川区)、大横川(墨田区)などに沿ってなされている。一方、北・荒川・足立・葛飾・墨田・江東・江戸川各区では、小工場が多いが、閉鎖したり地方への分散も目だち、工場跡地の集合住宅化が進んでいる。かつては小規模な伝統工業がほとんどであったが、工業の高度化が進んでいる。たとえば、台東区や墨田区などのファッション関連産業(衣服・靴・ハンドバッグ・装飾品など)に代表されるように新しい工業への転換もみられる。

 東京の人口が増えて、人口の地域間移動や空間利用の変容などが著しくなるとともに、人口の空洞化によって自治会などを通しての共同体意識も低下し、下町という概念は地区内外の人々の意識から薄らぎつつある。

[高橋伸夫]

『朝日新聞社編・刊『東京・下町』(1987)』『那和秀峻著『隅田川――流れに映る下町の哀歓』(1987・東京新聞社出版局)』『八木澤壮一他著『都心の土地と建物――東京・街の解析』(1987・東京電機大学出版局)』『横田貢著『べらんめぇ言葉を探る』(1992・芦書房)』『野村圭佑著『隅田川のほとりによみがえった自然』(1993・プリオシン)』『諸河久写真、林順信文『都電の消えた街――東京今昔対比写真(下町編)』(1993・大正出版)』『新潮社編・刊『江戸東京物語(下町篇)』(1993)』『町村敬志著『「世界都市」東京の構造転換――都市リストラクチュアリングの社会学』(1994・東京大学出版会)』『芦原義信著『東京の美学』(1994・岩波書店)』『春風亭小朝・秋元康他著、荒木経惟・高梨豊他写真『私だけの東京散歩(下町・都心篇)』(1995・作品社)』『田沼武能著『下町今昔物語――田沼武能写真集』(1996・新潮社)』『桐谷エリザベス著、桐谷逸夫訳・画『消えゆく日本――ワタシの見た下町の心と技』(1997・丸善)』『北畠康次著『歴史資料 東京下町の範囲の変遷図』(1997・メグミ出版)』『加藤昌志写真『「深川・木場」下町のぬくもり』(1998・人間の科学社)』『荒俣宏著、安井仁写真『江戸の快楽――下町抒情散歩』(1999・文芸春秋)』『山下宗利著『東京都心部の空間利用』(1999・古今書院)』『『ウォーキングナビ東京 山手・下町散歩』(2001・昭文社)』『石井實著『東京 写真集・都市の変貌の物語1948~2000』(2001・KKベストセラーズ)』

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日本歴史地名大系 「下町」の解説

下町
しもまち

鹿児島城の南東方に広がり、東は海(鹿児島湾)に臨む。慶長六年(一六〇一)に始まる鹿児島城の築城によって中世以来城下であったかん町の狭隘は解消され、近世鹿児島城下は発展の可能性を城の南側に求め、下町は次第に拡大していった。一般に下町一二町とされるが、下町発展の様相は町数からうかがえる。宝暦期(一七五一―六四)の「通昭録」では一〇町、寛政期(一七八九―一八〇一)は一二町(「薩藩例規雑集」東京大学史料編纂所蔵)、天保城下絵図では一五町とある。また城下全体の人口が寛政一二年の六万二千弱から文政九年(一八二六)に七万二千余と膨れ上がった一因にも(「薩藩政要録」など)、下町の発展があげられる。発展には二つの施策が功を奏したといえる。一つは大きく城下を迂回していた甲突こうつき川の川筋直しで(落穂集)、旧川筋は清滝きよたき川として確認できる。もう一つは城の正面から大門だいもん口までの海岸の埋立であった。例えばのちの松原まつばら町・南林なんりん寺辺は海中で、武家屋敷の西千石にしせんごく馬場は葭草の渚であったとされる(薩藩天保度以後財政改革顛末書)。下町一二町とは六日むいか町・なか町・呉服ごふく町・大黒だいこく町・木屋きや(のち金生町)つき町・しん町・いま町・堀江ほりえ町・船津ふなつ町・納屋なや町・いずみ町である。天保城下絵図では海縁に北から弁天べんてん町・汐見しおみ町・住吉すみよし町が加わっている。三町とも文政から天保期(一八三〇―四四)に諸郷公役によって屋久島岸岐南端から西方一帯、北は名山めいざん堀に至る埋立がなされて成立した(鹿児島市史)


下町
したまち

水戸城北の杉山すぎやま(二の丸から杉山通への出口の門)と南の柵町さくまち(東柵町と西柵町の境の門)の東側の低地に開かれた城下町を下町したまちという。明治以後は下市しもいちと称する。下町では本丸崖下の地を武家屋敷、南の本町ほんちよう通を中心に町人町としたが、どちらも武家屋敷と町家が混在していた。

武家屋敷(侍小路)東柵ひがしさく町・三軒さんげん町・杉山口すぎやまくちうき町・宝鏡院門前ほうきよういんもんぜん新河岸しんかし立浪たつなみ町・いせき町・花畠はなばたけ辻・浮草うきくさ町・細谷ほそたに町・裏新うらしん町・みなみノ辻・きたノ辻・蓮池はすいけ町・中之なかの町・赤沼あかぬま町・荒神あらがみ町・いちノ町・ノ町・さんノ町・南袋みなみふくろ町・代官だいかん町・馬場ばば新寺しんてら町・北袋町・浮新うきしん町・石垣いしがき町・ねずみ町・水門みずもん町・竹熊たけくま町・横竹熊よこたけくま町・東台ひがしだい十軒じつけん町・搦手からめて町などである。


下町
しもまち

[現在地名]高梁市下町

元和四年(一六一八)、松山入部まもない池田長幸によって取立てられてできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)ほん町から下谷しもだに(現紺屋町川)に架かる橋を渡り南へ真っすぐ延びる幅員三間余の備前往来沿いに町家が並んでいた。南は牢屋ろうや小路を隔ててみなみ町、東は横丁四通りによって鍛冶かじ町、西は同じく横丁四通りによって中間ちゆうげん丁に続く。地子・公役免除の町。

元禄(一六八八―一七〇四)初年改では町の長さ三町一八間、家数一二四(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家数八九、うち間口一・五―二間が二七、同二・五―三間が二六、同三・五―五間が一六、同六―一〇間が一八、同一一間および二一間が各一(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)


下町
しもまち

[現在地名]諫早市東本町ひがしほんまち

諫早市中のほぼ中央に位置する。西は島原街道有喜うき道の分岐点となっている。宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳に「諫早上町」「同下町」と記される。天保一〇年(一八三九)以前の諫早旧城下図(「諫早市史」所載)では下町の北に島原街道を挟んで中川良なかがわら、南手に上使屋・大城戸おおきどと記される。同一三年以降の佐賀領郷村帳では諫早下町のもとにしん町・おく町・うら町・よこ町・古中川原・新中川原が記されており、当町の管轄を意味するものと考えられる。下町の別当は諫早市中五ヵ町の別当のうちもっとも有力であったとされ、ふる町・うおたな町などをも管轄していたという。


下町
しもまち

[現在地名]龍野市龍野町本町たつのちようほんまち龍野町川原町たつのちようかわらちよう

大手おおて門から南下するたて町筋が東のしも船本ふなもとへ通じる道と、南西方向の日山ひやま村へ通じる道とに分岐する一帯から南の町筋にあたり、東は下川原しもかわら町。枝町として今宿いまじゆく御堂の後みどうのうしろタ町がある。武家屋敷の福の神ふくのかみの南の土知川どじがわ口に番所、日山村との境に樋山口ひやまぐち門があり、同門手前から東へ曲がった川原町筋と交わる付近にも門が設けられていた(寛政一〇年龍野惣絵図)


下町
しもまち

[現在地名]鳥栖市田代大官町たしろだいかんまち

田代たじろ五町の一つ。長崎街道筋の中位段丘高所にかみ町の西に続いている。上町とともにほん町といわれ、田代町成立当初からの町で、明暦元年(一六五五)の大道付替えによってふくろ町ができ、新大道筋によこ町ができた。町並の長さ九一間、ほかに袋町三二間半、横町五〇間(基養精細録)

横町角に高札場、一里山、その向いに馬立場(問屋)があり、付近に旅籠数軒があった。また町並の北側に上使家(お茶屋)があった。当町の居屋敷は石盛一石三斗、一屋敷の表間口六間(基養精細録)で上町と同様である。


下町
しもまち

郭中かちゆうの東に続く町人集住地区。ひがし町ともよばれた。北はくち川、南はかがみ川、東は土佐郡下知しもじ村に続く。郭中との境、南北に延びる外堀の中央やや南寄りから東に向けて縦堀があり、下町東部の横堀に結ばれる。道筋はおおよそ南北に通る筋とそれに交差する東西の筋が通り、六〇間を一丁とし、郭中に近い側から東へ一丁目・二丁目と数えた(高知風土記)。町並は主として東西筋に沿う縦町で構成され、江戸時代後期には縦堀を境に北をきた町、南をみなみ町と大別された。


下町
したまち

おお町より西の町々一四町の総称。大町を除いた西の町町を、すべて下町と称した。また桂林寺けいりんじ町より以西は郭内にある諏訪神社の後ろにあたるため、うしろ町とも称した(新編会津風土記)。寛文六年(一六六六)の「会陽町街改基・惣町」には、「文禄二年此町ヲ置、名義詳ナラス、或説ニ諏方神祠ノ後ニ丁ル、故ニ後町ト名クト云」として、桂林寺町・おとな町・北小路きたこうじ町・七日なぬか町・紺屋こんや町・はらノ町・赤井あかい町・当麻たいま町・大和やまと町・融通寺ゆつうじ町・名子屋なごや町・当麻中たいまなか町・善久ぜんきゆう町・針屋はりや町の町名を記している。


下町
しもまち

[現在地名]宮古市本町もとまち築地つきじ一丁目

本町の南端山口やまぐち川際から、閉伊へい川河口に近い七戻ななもどりの崎まで延びた細長い町。前面は山口川および閉伊川に臨み、背後にたて山を負った片側町で、片桁かたけた通ともよばれた。町のほぼ中央、おくらさわとよばれる台地に宮古通代官所があり、その裏手には宮古御蔵二棟があった。代官所前は山口川・閉伊川の落合にあたる。元禄五年(一六九二)の町屋鋪表口改帳(伊香文書)によると、道幅は河岸沿いが三間、代官所前が三間四尺、町の長さは二二〇間余(ただし一間は六尺五寸)、屋敷一六軒、ほかに間口六間の風呂屋があった。享和三年(一八〇三)仮名付帳では宮古村に属し、家数二四。


下町
しもまち

[現在地名]行田市行田

上町の東に続く両側町で、日光脇往還に沿う。町の長さ二町三五間余(忍藩領町村名鑑)。東に進み大長だいちよう寺前から北に曲がって下町門すなわち長野口ながのぐち門を出ると長野村で、組屋敷を通り抜けて日光脇往還が延びている。天文年間(一五三二―五五)から下町・新町に六斎市が立てられていたというが、寛保二年(一七四二)の町絵図(要中録)に鍛冶・土物・塩魚・川魚・木物などと街路に並ぶ露店の書込みがあり、一般の在郷市と変わらないものであったと思われる。


下町
しもまち

[現在地名]新発田市大手おおて町一丁目

町人町の本町三町のうち、中町の西に続く町。城下町の下手(西)出入口にあたり、町の西端にある大木戸を出て新発田川を渡ると、下鉄砲しもてつぽう町を経て下杉縄手しもすぎなわての道が猿橋さるはし村に向かっている。早くに成立していた上町・中町に続き、慶長一四年(一六〇九)地割普請が行われ、夫役は一人分六―八間、半人分三―四間と定められた(蕉鹿年代記)。道幅は五間(延享元年「新発田町家図」新発田市立図書館蔵)。享保一一年(一七二六)には南表三四軒・北表四一軒、うち一軒は木戸番人屋敷(「町中諸事書上」田中正治氏蔵)。同一三年二月に当町で九一軒焼失、四月にも当町より出火して本町三町で一三五軒が焼失する火事があり、この後、町中を板屋根にして道幅五間とされたという(新発田市史)


下町
したまち

[現在地名]横手市さいわい

通称下内しもうち(広義の本町)の一町。東方には本町もとまち通の延長道路を隔てて竜昌りゆうしよう院があり、西は平行するしん町、北は城下町北端の古川ふるかわ町。寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)に、茂木御免新町小路もてぎごめんしんまちこうじ三一戸がみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、御免町一一五間余とある。明治五年(一八七二)下タ町と改称(「沽券地屋敷調壱人別帳」横手郷土史資料)した。


下町
しもまち

[現在地名]中村市大橋通おおはしどおり一―二丁目・東下ひがししも町・弥生やよい

中村町の西南部、四万十しまんと川の宿毛すくも街道渡場に近い地域に成立した町場で、一条氏時代以来の歴史がある。当初は上町を統轄する惣年寄(のち目代)とは別に庄屋がいたが、明和(一七六四―七二)頃には目代の管轄下に入り、その下に下町組頭が置かれていた。

中村三万石御代之図に下町の称がみえ、町家は東西の町筋を中心とし、その東端で直交する南北通りの東側にもある。現在の町名に当てはめて町家の軒数を示すと、大橋通一―二丁目北側一六軒、大橋通一―二丁目南側一九軒、東下町・弥生町一四軒で、計四九軒となる。安永二年(一七七三)目代横田家から巡見使に提出された「御巡見就被仰付指定」の控(目代横田家文書)によると、地高一〇石八斗六升余、うち畠六斗五升(免五ツ)、町屋敷一〇石二斗一升余(免八ツ四歩)


下町
しもまち

[現在地名]三木市福井ふくい二―三丁目

なか町の西、美嚢みの川左岸に位置する。三木町の町方町の一町で、下五ヵ町に属する。慶長国絵図にみえる三木町の一部。文化元年(一八〇四)の三木町家別人数並諸商売書上写(三木市有文書)によれば家数一七五・人数八六九。弘化二年(一八四五)の家数取調帳(同文書)では家数二〇四、うち七一軒は地方町の前田まえだ町にある。寛政一〇年(一七九八)当町の山田屋伊右衛門ら前挽鍛冶三人は前挽値段を定めており、伊右衛門印は三木前挽仲買衆中へは正味銀三四五匁、大坂問屋衆中へは金五分仕かけ三五五匁、江戸表問屋衆中へは正味銀三七〇匁であった(文化二年「前挽職方控」黒田家文書)


下町
したまち

[現在地名]刈谷市銀座ぎんざ

刈谷城町口門を出て堀に沿い北に向かう道で、堰川せきのかわを渡り、くま村・高津波たかつなみ村・小山おやま村を経て名古屋道に通じる。士族屋敷とともに商人の家があり、名古屋に行き来する旅人で賑った。この道を挟んで城内居所と相対する高台が椎木しいのき屋敷で、椎木屋敷下に修光しゆこう寺があった。この辺りには古くから町家があり、その裏に薬師堂があったという。


下町
したまち

[現在地名]大館市大下おおした

本藩直臣(給人)の居住する武家町。けい城のある舌状台地北麓にあるためこの名がある。「六郡郡邑記」武家町の項に「下町」とみえる。「郷村史略」の外町の項に「川原町下タ」とあるほか、内町の項には「下タ町土手町 仏町川原町 十狐町」とある。舌状台地上にある「上町」に対し、台地北麓の町を総称する呼名として用いられた。


下町
したまち

[現在地名]野辺地町 野辺地・坊の塚ぼうのつかなど

通称下町。野辺地村の町方で、奥州街道に沿って南北に連なり、北はほん町に接する。町方の南の出入口にあたる。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に野辺地町七町の一として町名がみえる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると、当町から東に通じる道が二筋あって、南の道は大平おおだいらとあり、北の道は常光じようこう寺・海中かいちゆう寺・西光さいこう寺へ向かっている。


下町
しもまち

[現在地名]大館市十二所 下町

十二所じゆうにしよ町の西北部に位置する町人町。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」および幕末の「郷村史略」に「下町」とみえる。鹿角かづの比内ひないを結ぶ街道沿いに形成され東はなか町。


下町
したまち

[現在地名]七戸町 七戸

通称下町。七戸村の町方で、奥州街道沿いに南北に延びる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると北はよこ町、南は小川こがわ町に接し、東にふくろ町、西にみなみ町が延びる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数五〇とあり、享和三年(一八〇三)の仮名付帳では二三。


下町
したまち

[現在地名]和歌山市下町げのまち

道場どうじよう町の西、久保くぼ町四丁目の南の町人町。「続風土記」に「旧は音読せり、寛政八年した町と改めらる」とあり、もともと「げのまち」と称したらしい。


下町
しもまち

[現在地名]鹿角市十和田大湯 下町

大湯おおゆの町並西側に位置し、かみ町・下之湯しものゆと接する。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「三十二軒下町」とみえ、「北奥路程記」にも「大湯村 町造に(中略)下町家三十弐軒」とある。


下町
しもまち

[現在地名]鹿角市十和田毛馬内 下町

毛馬内けまないの町並中央部の町人町。正徳二年(一七一二)の毛馬内絵図に「下町」とある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」にも「四十六軒下町」と記す。

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改訂新版 世界大百科事典 「下町」の意味・わかりやすい解説

下町 (したまち)

広義には都市の低いほうにある町をいうことばで,高台を指す山手の対語である。東京(江戸)では京橋,日本橋から神田,下谷,浅草方面に町家が多く,人口の密集した地域が低地にあったことから,狭義にはこの地域を指す。また,都市の商工業に従事する町家が多い地域一般を指すこともある。東京の低地が山手との対比で下町と呼ばれるようになったのは17世紀であるといわれ,吉田東伍は《大日本地名辞書》で,〈江戸の山手,下町〉という呼称の起こりは,徳川家康の江戸開府のころにさかのぼれるのではないかと推測している。また,現在の小平市の農村の史料には1662年(寛文2)に野菜問屋の場所として山手,下町ということばが見られる。さらに小川顕道の《塵塚談》(1814)には,〈白山牛込辺の人,神田辺或は日本橋辺へ出る節は,下町へ行く〉,また〈浅草近辺のものは,神田日本橋辺へ出るをば江戸へ行くといひけり〉とある。19世紀初頭は神田,日本橋,京橋あたりが下町といわれ,とくに江戸市内の中心として〈江戸〉と呼ばれていたことがわかる。

 江戸市内の山手地区(四谷,青山,市谷,本郷,赤坂等)にはおもに武士が住み,下町には町人が住んでいたことから,武士の文化,町人の文化がそれぞれの地域にわかれていった。下町は商工業が盛んで,経済活動の中心であるが,一方,浅草,両国等の盛場も形成されるなど,娯楽・享楽的な面でも栄えていた。そして〈江戸っ子〉ということばに象徴される,反権力性や義理人情を重んじる独特の文化と生活様式が生まれた。このことについて二葉亭四迷は〈下町育ちは山の手の人とは違ふ〉(《平凡》1907)と書いている。江戸から東京へと変わり,都市が拡大するのに伴い,下町・山手の範囲もそれぞれ広がっていき,荒川区,足立区,葛飾区,江戸川区も下町といわれるようになった。下町に商工業地区が多く,山手に住宅地が多いという構造は,現在もある程度は続いているが,生活構造の急激な変化のなかで下町の気質は失われつつある。

 なお,英語のダウンタウンdowntownは,都市の低い部分=下町を指し,山手地区を指すアッパータウンupper townとの対比で使われる。前者は商業地域,後者は住宅地域を意味するが,前者にはとくに都心の商業地域をいう例がみられる。またニューヨークのマンハッタンでは,14丁目から南の海寄りの地域をダウンタウン,86丁目から北をアッパータウン,その中間をミドルタウンmiddle townと呼んでいる。
山手
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百科事典マイペディア 「下町」の意味・わかりやすい解説

下町【したまち】

陸上・水上交通の便などのため低い沖積地に発達した都市の商工業地区。高台の住宅地区としての山の手と区別される。台地と沖積地との接触部に発生した都市で普遍的にみられる地域分化で,日本では城下町のころから明瞭であったが,江戸の低地が下町と呼ばれるようになったのは17世紀ころといわれる。現代では人口の集中,商工業の発展でさらに著しくなった。東京で古くから下町と呼ばれるのは都区部の東半の低い地域で,浅草・下谷・深川・神田・日本橋・京橋・芝などを中心とし,商家が多く,伝統的な下町情緒や下町言葉を残している。
→関連項目江戸っ子東京[都]都市

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下町」の意味・わかりやすい解説

下町
したまち
downtown

都市の商工業地域のうち,おもに低地に発達した地域。職住近接形態が多く,人口密度も高い。東京の場合は,赤羽から品川を結ぶ京浜東北線を境として,その東方に広がる低地 (隅田川・神田川流域など) のことで,山ノ手の住宅街に対していう。現在も日本橋,神田,浅草などには,江戸時代からの町屋の伝統をひく商工業者が多く住んでいる。人情に厚いなど独特の生活情緒をもつとされる「江戸っ子」は,この地域に住む人たちをさす。東京においては,低地であっても,丸の内や霞が関など江戸城の外堀内部であった地域は,下町には含まれない。英語の downtownは,同じように水陸交通に恵まれ,商工業地域として発達したことから,下町と訳されることがあるが,現在の意味は都心ないし中心商店街である。

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デジタル大辞泉プラス 「下町」の解説

下町

1957年公開の日本映画。監督:千葉泰樹、原作:林芙美子、脚色:笠原良三ほか。出演:山田五十鈴、亀谷雅敬、三船敏郎、田中春男、村田知英子、淡路恵子ほか。第12回毎日映画コンクール男優主演賞(三船敏郎)、第8回ブルーリボン賞助演女優賞(淡路恵子)受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の下町の言及

【水戸[市]】より

…主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…

【東京[都]】より

…日露戦争直後の日比谷焼打事件(1905),東京市電争議(1911)に始まり,護憲運動(1912‐13),廃税運動(1912)などの都市民衆運動の展開を背景に,大正デモクラシーの動きは,第1次大戦期の東京の米騒動(1918)に至って,その頂点に達した。 1923年の関東大震災は,死者約10万人,損害55億円(内務省調査)の被害を出し,下町を中心に全市に壊滅的打撃を与えた。〈明治の東京〉は崩壊し,〈帝都復興〉とともに,以後,東京は新たな段階を迎える。…

※「下町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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