デジタル大辞泉
「日野町」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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日野町
ひのまち
[現在地名]日野町村井・大窪・松尾
西流する日野川と、その北方を同じく西流する支流出雲川によって挟まれた平坦部のほぼ中央に位置する。東は仁正寺村、西は上野田村。天文三年(一五三四)頃に仁正寺村地内に築かれた蒲生氏の主城中野城の城下町として成立。江戸時代の郷村帳類では日野村井町・日野大窪町・日野松尾町の三町よりなる。
〔城下町形成以前〕
日野の地名は耕作に適した肥えた地を意味すると思われ、北東部にある綿向神社(現馬見岡綿向神社)を「延喜式」神名帳に載る蒲生郡馬見岡神社に比定する説もある。平安期から中世にかけては日野牧(日野牧庄)であった。綿向神社は中世には蒲生氏勢力下であった、いわゆる蒲生上郡一二八村の総社に位置づけられており、同社門前にあたる当地も賑いをみせていたと考えられる。近世には上野田村地内を御代参街道が通るが、同街道は中世には市道ともよばれ、鈴鹿峠越で伊勢国とを往来する商人たちが広く利用しており、当地には市も立てられていた。応永三三年(一四二六)七月四日の日吉大宮神人小幡住民等目安案(今堀日吉神社文書)には「日野市」とみえ、小幡(現神崎郡五個荘町)の商人は三〇余年前に保内川(現在の筏川)を商圏の南限と定めたので、同川より南にある日野市では商売をしていないと述べている。また文亀二年(一五〇二)と推定される四月二九日付の西郡右京亮書状案(同文書)によれば、保内と横関(現竜王町・近江八幡市)の商人が日野市において呉服本座をめぐる争論を起こし、呉服代官西郡右京亮は、その裁決を日野政所(蒲生貞秀か)に仰いでいる。永正一五年(一五一八)一二月二一日の南郷諸商売定書案(同文書)によれば、日野塩とよばれる伊勢国産の塩が座人により販売されていることから市には塩座もあって、天文一八年一二月四日の神人足子入目日記(同文書)にみえる「日野塩屋」なども座人の一人と考えられる。日野市は上市(現在の大窪のうち上・中・下の岡本町付近)と下市(現在の上野田・里口付近)に分れていて(慶長二〇年二月一七日「覚」町田文書など)、下市には市神が祀られていたと伝える(蒲生旧趾考)。
〔城下町時代〕
大永七年(一五二七)蒲生高郷から家督を継いだ蒲生定秀は天文三年頃に中野城を築き、当地に城下の町割を行った。この中野城下時代の町割について詳細にうかがい知ることのできる絵図類などは残されていないが、天文二年に定秀が定めた町割を示すという日野町割之書付写(日野町志)や同三年の様子を表すという日野城下町割(蒲生旧趾考)などが残る。
日野町
ひのちよう
面積:一三四・〇二平方キロ
日野郡の中部に位置し、北は江府町・溝口町と西伯郡西伯町、西は日南町、南は岡山県新見市・同県阿哲郡大佐町、東は同県真庭郡新庄村に接する。町域の約九〇パーセントを山林原野が占め、東から南にかけて中国山地の脊梁が走る。町の中央を日野川が北東流し、板井原川(一級河川、延長一二・六キロ)・天郷川など数本の支流を合流。これらの河川によって形成された狭小な平地・谷間に集落が散在する。JR伯備線が日野川沿いに走る。米子からの国道一八一号は根雨まで伯備線と並行して走り、根雨からは板井原川に沿って旧出雲街道を遡上し、四十曲トンネルを抜けて新庄村に入る。米子から当町福長を経て日野川沿いを根雨まで下る国道一八〇号は、濁谷・門谷から明地トンネルを抜け新見市に至る。
考古遺跡は日野川流域に点在している。石器の採取地が六ヵ所あるが、縄文期か弥生期のものかは不明。弥生遺跡は三ヵ所、古墳は約二〇基が確認されている。古墳は黒坂地区で一三基を数え、町域内では最も多い分布を示す。
日野町
ひのちよう
面積:一一七・六二平方キロ
郡の南東端に位置し、北は神崎郡永源寺町・八日市市、東から南にかけては甲賀郡土山町・水口町、西は水口町と蒲生町に接する。東側には鈴鹿国定公園に指定される鈴鹿山脈の綿向山・竜王山・水無山などがそびえ、町域の三五・五パーセントを山地が占める。鈴鹿山脈から西に延びる数条の丘陵谷間を日野川や支流佐久良川が貫流し、その沿岸や丘陵上に集落が散在する。北部の瓜生津峠・高木峠、南部の平子峠は古くから間道が通じ、中世には足子商人たちの通路となった。南部の笹尾峠は江戸時代、御代参街道が通り、同街道沿いの鎌掛や石原は脇宿に指定されていた。現在は瓜生津峠を経る国道三〇七号が町のほぼ中央を南北に走り、平子峠を経る県道鈴鹿スカイラインは県道近江八幡―日野線と連絡し、東西に三重県と湖東方面を結ぶ。西部を近江鉄道本線が縦断、内池地内に日野駅が設けられている。
天智天皇が宮地を移そうとした「蒲生郡の匱
野」(「日本書紀」天智天皇九年二月条)を当町域とする説もある。古代蒲生郡必佐郷(和名抄)は当町南西部、明治二二年(一八八九)に成立した南比都佐村・北比都佐村一帯に比定され、「延喜式」神名帳に載る蒲生郡比都佐神社を十禅師の同名社、同馬見岡神社を村井の馬見岡綿向神社とする説もある。
日野町
ひのまち
[現在地名]宇都宮市二荒町・馬場通り三丁目
奥州街道筋の東西の町人町。東は大町と今小路町、西は曲師町と馬場町に続く。南は剣宮町、北は千手町。古くから宇都宮大明神の門前町をなしていたといわれる。一方「宇都宮古実抄」には慶長三年(一五九八)蒲生秀行が宇都宮藩主となったとき、出身地の近江国日野(現滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺跡に住まわせたのが町の起りという。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。寛文一二年(一六七二)当町より出火、このとき類焼を免れた曲師町と共同で冬渡祭に報賽のため児子唐人踊を奉納した。これが付祭行事の最初である。翌年の春渡祭には他町からも出すようになり、市中ことのほか混雑したので、以後は九月祭礼に出すこととしたといわれる。
日野町
ひのまち
[現在地名]米子市日野町・万能町
茶町の北に続く伯耆街道両側を占める町人町。西端は城の外堀となる。総間数一〇七間余。北の道笑町境に東に入る唐物屋小路、茶町境に外堀に架かる福厳院橋への小路と東側茶町荒神への小路がある。福厳院小路は六九間、荒神小路六九間(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。町名は近世初期日野郡黒坂城下(現日野町)や江尾城下(現江府町)からの移住者により形成されたことに由来するとされる。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高は七四石余、物成四四石余で(米子市史)、城下では道笑町・立町に次ぐ高であった。
日野町
ひのまち
[現在地名]松阪市日野町
伊勢参宮街道を南下して松坂町に至ると松坂大橋で坂内川を渡河し、本町・中町を経て当町に達する。明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)は、「人家稠密ノ所ニシテ、西ハ字白粉町・新町及魚町等ニ連リ、北ハ字中町ニ接シ、東ハ本郡矢川村ニ隣リ、南ハ字湊町ニ界ヲ立ツ、東西百七十間、南北百六十間、但シ旧字横町ヲ合シテ本称ニ改ム」と記す。「権輿雑集」には「丁役全歩、天正十六子年江州日野より来住、当時角屋源右衛門、衣屋与兵衛相続、其余不詳、古の依縁にや畳表蚊帳等江州より寄て商之、又松坂嶋を売屋多し」とあり、蒲生氏郷が近江日野から入部したことを前提に、日野商人を松坂町の一画に集住させ日野町を称したと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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日野〔町〕
ひの
滋賀県南東部,日野川上流域にある町。1889年町制。1955年西大路村,鎌掛村,東桜谷村,西桜谷村,南比都佐村,北比都佐村の 6村と合体。中心地区の日野は天文年間(1532~55)蒲生氏の城下町として栄え,近世には中井家はじめ多くの近江商人を出した。元禄の頃から発展した売薬の製造,販売は今日も行われる。機械・食品工場などもある。1973年日野工業団地が造成された。農村部では米作のほか日野茶を特産。丘陵地に県立種畜場がある。東部の錦向山麓の接触変質地帯は国指定天然記念物で,熊野のヒダリマキガヤ,鎌掛の屏風岩,鎌掛谷のホンシャクナゲ群落,別所高師小僧も国の天然記念物。また,比都佐神社をはじめ貴重な文化財を有する古社寺が多く,近江中山の芋競べ祭は国の重要無形民俗文化財。町域の一部は鈴鹿国定公園に属する。近江鉄道本線,国道307号線,477号線が通る。面積 117.60km2。人口 2万964(2020)。
日野〔町〕
ひの
鳥取県南西部,日野川中流域にある町。 1959年根雨町と黒坂町が合体して成立。江戸時代初期,黒坂は関氏の城下町,根雨は出雲街道に沿う宿場町として発展。山地が広く林業と製材業のほか,米作,畜産が行われる。重要文化財をもつ古刹長楽寺,ツツジの名所滝山公園,中国電力の貯水池鵜ノ池などがあり,一帯は奥日野県立自然公園に属する。日野川に沿って JR伯備線,国道 180号線が通る。面積 133.98km2。人口 2907(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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