改訂新版 世界大百科事典 「玉縄」の意味・わかりやすい解説
玉縄 (たまなわ)
神奈川県鎌倉市の地名。1512年(永正9)北条早雲が城を築き,戦国時代後北条氏が本拠地小田原と並んで要地とした地で,後北条氏の関東制覇の拠点となった。34年(天文3)鶴岡上宮回廊修造のとき,鎌倉・奈良・伊豆番匠とならんで玉縄番匠も作事を担当した(《快元僧都記》)。玉縄の地には北条氏に掌握された番匠集団がいたとみられる。後年番匠五郎三郎は鎌倉の地に給田を与えられている(《小田原衆所領役帳》)。玉縄城主は,氏時(氏綱弟)-為昌(氏綱子)-綱成(福島正成の子,氏綱の女婿)-氏繁(初名康成,綱成子)-氏舜(氏繁子)-氏勝(氏舜弟)である。61年(永禄4)3月相模に侵入した越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)軍は,小田原城を攻撃し城下に火を放ったのち鶴岡八幡宮に参詣し,その帰途玉縄城を攻めた。63年6月10日北条氏は,東郡,三浦郡,武蔵国久良岐郡に5年に1度の玉縄城の修理を命じている(陶山静彦所蔵文書)。豊臣秀吉の東征が伝えられると,玉縄城主氏勝は城を家臣堀内勝光に託し,自身は箱根山中の山中城を守った。90年(天正18)3月29日山中城が落ち,玉縄に籠城した氏勝は,4月8日鶴岡八幡宮院家等に合計180俵の米を食糧として進めた(鶴岡八幡宮文書)。秀吉軍が小田原城を取り囲んでいるさなかの4月21日,氏勝は玉縄城を開き,徳川家康に下った。家康に与えられた玉縄城は,家康家臣が守ったが,その後廃城となった。
執筆者:田辺 久子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報