日本歴史地名大系 「三浦郡」の解説 三浦郡みうらぐん 面積:一七・〇〇平方キロ葉山(はやま)町三浦半島中央部西側にある。海岸部を南北に道が通り、東西に半島を横断する道が分岐する。かつて三浦郡はほぼ三浦半島全体を占めていたが、半島先端部と北西部を除いた主要部分が横須賀市に、北西端の鎌倉市と接する部分が逗子(ずし)市に、さらに半島先端部が三浦市となって、現郡域は葉山町一町である。「日本書紀」持統天皇六年五月七日条に「御浦郡」とあり、古代には多く御浦と記され、中世以降は三浦と記される。「万葉集」巻一四に「芝付の御宇良(みうら)崎なるねつこ草相見ずあらば我恋ひめやも」の歌があるが、御宇良崎の比定地は不明。〔原始〕木古庭の三頭(きこばのさんとう)山中の標高約一六〇メートルの馬の背(うまのせ)山遺跡から縄文時代早期や前期の土器片・石鏃・礫器などが採集されている。三浦半島の縄文遺跡はほとんどが海岸近くに集中しているのと対比して注目される。この辺りは東西に走る丘陵の尾根上にある交通路で、豊富な湧水を利用して居住したと思われる。弥生時代の遺跡や遺物はきわめて少ないが、堀内(ほりうち)や一色(いつしき)などの低平地から若干の遺物が発掘されている。堀内会館前の児童遊園地の地下三メートルから、樟の大木をくりぬいた丸木舟が出土し、弥生土器や土師器・須恵器の破片も検出された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by