和歌山県中央部の市。2005年5月旧田辺市と中辺路(なかへち)町,本宮(ほんぐう)町,大塔(おおとう)村,竜神(りゅうじん)村が合体して成立した。人口7万9119(2010)。
田辺市南部の旧村。旧西牟婁(にしむろ)郡所属。人口3246(2000)。紀南地方最高峰の大塔山(1122m)西麓の山岳地帯にあって,富田(とんだ)川,日置(ひき)川が穿入蛇行し,谷底に集落が点在する典型的な山村である。全域が交通不便な山岳地帯のため,人口の流出が激しい。交通の整備が図られ,西端の富田川沿いを国道311号線,中央の日置川沿いを371号線が通る。村域の大部分が山林で,林業が基幹産業。日置川一帯には百間山渓谷やかもしか牧場,青少年旅行村があり,大塔日置川県立自然公園に指定されている。富田川沿いに鮎川温泉(含炭酸重曹泉,23~27℃)がある。
執筆者:上田 雅子
田辺市西部,田辺湾に面する旧市。1942年市制。人口7万0360(2000)。古く〈牟婁津(むろのつ)〉(《日本書紀》),〈紀の国の室(むろ)の江〉(《万葉集》巻十三)と記される港は,当市の海岸部と考えられる。また熊野三山への参詣道(熊野街道)が,山間を抜ける中辺路(なかへじ)と海岸に沿う大辺路(おおへじ)とに分岐する交通の要地であった。
平安~鎌倉期には左会津川流域に摂関家領三栖(みす)荘,右会津川の中・上流域に醍醐寺一乗院領秋津荘,そして市域西端を流れる芳養(はや)川流域には石清水(いわしみず)八幡宮領芳養荘が成立。湊にある闘鶏神社は,源平合戦に際して熊野別当湛増が,いずれに味方すべきか神前で紅白の鶏を戦わせて占ったという話で著名。また弁慶は湛増の子と伝えられ,当市では弁慶の出身地として祭りが行われる。関ヶ原の戦の後,浅野幸長が紀伊に入国,田辺には重臣浅野氏重が配された。1619年(元和5)徳川頼宣が紀州藩主となると,田辺には付家老安藤直次(3万8000石)が配されて新宮とともに支藩的存在となり,実質的には城下町であった(正式に田辺藩となるのは1868年)。田辺城は会津川河口左岸にあり,海辺に位置するため,幕末に海岸警備が強化された際には二丸近くに台場が築かれた。田辺の名産は栩塗細工,炭,蓬萊酒,晒葛,蜂蜜などであったが,今日も珍重される備長(びんちよう)炭は田辺の炭問屋備中屋長左衛門が江戸や大坂に売りひろめたものとも伝え,秋津川には備長炭製炭創始者という吉三をたたえる盆踊歌が伝わる。
現在,文里(もり)港の周辺に木材業,製材業が発達,会津川河口の江川港も重要な水揚港で,水産加工も行われている。貝ボタンの加工は著名。JR紀勢本線が通じ,2007年阪和自動車道のインターチェンジが開通した。博物学者で,明治期の神社合祀令に強烈な反対運動を展開した南方熊楠(みなかたくまぐす)は当地出身で,その居宅が現存する。田辺湾上の小島神島(かしま)(天)は全島が暖地性の植物でおおわれる。田辺湾沿岸には製塩遺跡が多く,海食による岩陰を墓に利用した岩陰遺跡もある。
執筆者:安藤 精一+水田 義一
田辺市中部の旧町。旧西牟婁郡所属。人口3710(2000)。紀伊半島南部に位置し,紀伊山地南縁の果無(はてなし)山脈南斜面を占める。富田川と日置川沿いにわずかな低地があり,集落が点在する。平安時代より熊野詣での重要ルートであった熊野街道中辺路が通じており,現在,〈歴史の道熊野古道中辺路〉として整備され,それに並行して国道311号線が通る。農林業が基幹産業で,良質の杉,ヒノキ材を産出する。古くは滝尻王子と呼ばれた滝尻王子宮十郷神社をはじめ,熊野九十九王子のうちのいくつかがあり,富士根および洞谷一帯には天然記念物の栗栖川(くりすかわ)亀甲石包含層がある。
田辺市東部の旧町。旧東牟婁郡所属。人口3869(2000)。熊野川上流の十津川中流域に位置し,北は紀伊山地南縁の果無山脈を境に奈良県に接する。中心集落の本宮は熊野三山の中心熊野本宮大社(熊野大社)の門前町として古くから形成され,熊野街道の中辺路,十津川路,高野路,伊勢路などが集まる交通の要衝であった。町域の大部分が山林で,熊野杉の産地として知られる。大塔川の河原にある川湯温泉,熊野参詣をすませた上皇や貴族が入湯した湯ノ峰温泉など国民温泉に指定された温泉があり,吉野熊野国立公園に含まれる。湯ノ峰には天然記念物のユノミネシダ自生地がある。国道168号,311号線が通る。
執筆者:上田 雅子
田辺市北部の旧村。旧日高郡所属。人口4461(2000)。東は奈良県吉野郡十津川村に接し,村域のほとんどが山林である。北部に県下最高峰の護摩壇(ごまだん)山(1372m)がそびえ,同山に発する日高川が中央を貫流する。肥沃な土壌と温暖多雨の気候にめぐまれ,杉,ヒノキを中心とする林業やシイタケ栽培が行われる。日高川の渓谷に湧出する竜神温泉は49℃の重曹泉。役行者(えんのぎようじや)が開き,空海が難陀竜王の夢告により衆人に勧めた温泉という伝えがある。江戸時代には紀州徳川家初代頼宣が湯宿を設け,以後歴代藩主も保護を加え,深山幽谷の地にありながら栄えた。上御殿,下御殿など当時をしのばせる名の旅館がある。また,幕末,天誅組の水郡長雄ら8名が一時幽閉された土蔵(天誅倉)がある。中里介山の小説《大菩薩峠》の舞台でもある。護摩壇山の稜線を越えて高野山と結ぶ高野竜神スカイライン(2003年無料開放)が通じ,一帯は高野竜神国定公園に属する。
執筆者:重見 之雄
丹後国加佐郡の城下町。港湾交通の要地。現在の京都府舞鶴市の西舞鶴地区にあたる。《和名抄》に加佐郡田辺郷がある。天正年間(1573-92)織田信長の丹後攻略の際,細川藤孝が城郭を建設して田辺城としたが,鶴が舞うような姿であるとして舞鶴城とも言う。関ヶ原の戦後,京極高知が入部するが,1622年(元和8)高知の遺言で宮津藩12万7000石を3分轄,次男高三が加佐郡121ヵ村3万5000石を領して田辺藩が成立した。68年(寛文8)高盛の但馬への転封によって牧野氏がこれに代わり,明治維新まで継続した。城の建設とともに町割りが行われ,近隣諸国より商人や職人を招いて地子免除の特典を与え,城下町形成に努力した。城下町は武士と町人の混在型で,惣年寄の下に本町(9ヵ町)には年寄,枝町には肝煎を各1人ずつ置き町政に当たらせた。陸上交通では大手門を起点として京,宮津,河守(こうもり)の各街道があり,海上では若狭湾に面する田辺,黒地,浦丹生,大波,由良の各湊が発達し,由良川と高野川が年貢や物資の輸送に利用された。城内に藩校の明倫館が,町屋に求心舎,立敬舎が設けられ,1838年(天保9)には戸数1593,人口6510であった。59年(安政6)には戸数1725,人口7075で,ほかに武家人口2455,合計約9500人余と推定される。69年(明治2)版籍奉還の際,紀伊国の田辺藩と区別するために城名をとって舞鶴藩とし,以後町名も舞鶴町と改称。1901年中舞鶴に鎮守府が設置され,東舞鶴が軍港となって,旧田辺は西舞鶴と称された。
執筆者:野田 只夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
和歌山県中南部にある南紀の商業、観光の中心都市。1942年(昭和17)田辺町と下芳養(しもはや)村が合併して市制施行。1950年(昭和25)万呂(まろ)、下秋津(しもあきつ)、稲成(いなり)の3村、1954年新庄(しんじょう)村、1955年西富田(にしとんだ)村(1958年分離して白浜町に編入)、1964年牟婁(むろ)町を編入。2005年(平成17)中辺路(なかへち)、本宮(ほんぐう)の2町と龍神(りゅうじん)、大塔(おおとう)の2村を合併、市域は東に大きく広がり、面積は約7.5倍の1026.91平方キロメートルとなり、県最大となった。西部の海岸沿いをJR紀勢本線(きのくに線)、国道42号が通じ、山間部では熊野参詣(くまのさんけい)道に由来する国道168号、311号、371号(一部は高野龍神スカイライン)や国道424号、425号などが通じる。JR紀伊田辺駅は白浜、本宮、龍神をはじめとする周辺地域へのバスターミナルともなっている。地名はこの地に置かれた館(むろづみ)に収める稲をつくる田部(たのべ)に由来する(東牟婁郡誌)といわれる。中心地区の田辺は『日本書紀』には牟婁津とあり、田辺湾に注ぐ会津(あいづ)川の古い河口港で、『源平盛衰記』には田部湊(たなべのみなと)とある。熊野参詣道の大辺路(おおへち)と中辺路の分岐点でもあり、交通の要衝として古くから口熊野(現西牟婁郡)の中心地であった。中世に新熊野権現(いまくまのごんげん)(闘鶏神社(とうけいじんじゃ))が建立され、江戸時代紀伊藩が国家老安藤氏をここに置いたのもそのためである。その錦水城(きんすいじょう)跡は会津川河口左岸にあり、市街地に城下町の名残(なごり)をとどめている。河口右岸には田辺漁業の中心である江川港(えがわこう)がある。近世はカツオ漁が盛んでクジラ漁も行われたが、いまはサバが主である。特産南蛮焼(なんばやき)かまぼこや貝ボタン加工に起源するボタン産業など水産業とのかかわりが深い。田辺湾東部の文里港(もりこう)は外材輸入港であったが現在輸入は中止されている。文里港に臨む新庄は中辺路一帯を後背地とする木材集散地として発展し、いまも製材工場が多い。山間部では林業への依存度が高い。そのほか、チャや果樹栽培、畜産、シイタケ栽培などが行われている。国の史跡に高山寺(こうざんじ)貝塚、磯間岩陰(いそまいわかげ)遺跡、三栖(みす)廃寺塔跡、国の天然記念物に田辺湾の神島(かしま)(暖地性植物群落)、鳥巣(とりのす)半島の泥岩岩脈、湯峯のユノミネシダ自生地などがある。また闘鶏神社、高山寺などの古社寺、扇ヶ浜海水浴場、奇絶峡、石神(いしがみ)梅林、世界遺産(文化遺産)の熊野古道や熊野本宮大社、龍神温泉、湯の峰温泉などの観光地、南紀青少年スポーツセンター、田辺市立美術館、熊野古道なかへち美術館などの施設がある。なお、吉野熊野国立公園に含まれる田辺湾北側の天神崎は自然保護のため、市民地主運動により企業から買い取られた。人口6万9870(2020)。
[小池洋一]
『『田辺市誌』全2冊(1952、1971・田辺市)』▽『『田辺市史』全10巻(1990~2003・田辺市)』
京都府南西部、綴喜(つづき)郡にあった旧町名(田辺町(ちょう))。1997年(平成9)名称変更して市制施行、京田辺市となる。
[編集部]
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…人口5万3040(1995)。1997年綴喜(つづき)郡田辺町が市制,改称。東縁を木津川が北流し,西部は生駒山地につながる甘南備(かんなび)山が占める。…
※「田辺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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