田辺(読み)タナベ

デジタル大辞泉の解説

たなべ【田辺】[和歌山県の市]

和歌山県南部の市。熊野参詣の交通の要地として、紀州藩家老安藤氏の城下町を中心に発展。田辺湾北側の天神崎は日本のナショナルトラスト運動の先駆として知られる。平成17年(2005)5月、龍神村、中辺路(なかへち)町、大塔村、本宮(ほんぐう)町と合併し、熊野本宮大社も市域に含まれる。人口7.9万(2010)。

たなべ【田辺】[京都府の旧町名]

京都府南部、綴喜(つづき)郡にあった旧町名。平成9年(1997)市制施行して京田辺市となった。

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百科事典マイペディアの解説

田辺【たなべ】

丹後国加佐郡に近世初期に成立した城下町。現京都府舞鶴市の西舞鶴地区にあたる。名称は《和名抄》の加佐郡田辺郷に由来。1580年細川藤孝(幽斎)・細川忠興(ただおき)父子が織田信長から丹後を与えられて宮津に入部,藤孝の隠居城として田辺城(舞鶴城)が造営され,城下町も形成された。1600年細川氏は関ヶ原の戦の功により豊前中津(なかつ)へ転封,そのあとへ京極高知が入った。1622年高知が没して遺領が3子に分与され,田辺城には次子高三が加佐郡内121ヵ村・3万5000石を領知して居城,田辺藩を立藩した。1668年田辺京極氏は転封となり,牧野親成が同じく3万5000石で田辺へ入封,以降牧野氏が廃藩置県まで在封した。京極・牧野両氏の時代を通じて城下町は発展するが,骨格は細川氏時代を受け継ぐものであった。細川藤孝は城下町経営に際し,楽市楽座の制にならったと伝え,近隣諸国から商人・職人を招いて本町(ほんちょう)に住まわせ,地子銭を免除して城下町の発展を図ったという。細川氏・京極氏の時代には,城下町は下級武士と町人の混在形であったが,牧野氏の時代には分離された。本町は9町,ほかに枝町(享保以前は6町,以後8町)があり,城下町全体を管轄する惣年寄1人のもとに本町9ヵ町に年寄各1人,枝町には肝煎各1人が置かれていた。1825年成立の《田辺旧記》によると町屋の家数は1133。城下町は舞鶴湾(西湾)に面して田辺湊があり,領中にはほかに由良湊など多くの湊が発達していた。また由良川筋の河川交通も盛んで,陸路も京街道,宮津街道,河守(こうもり)街道(福知山街道),若狭街道などが通じていた。1869年版籍奉還に際して,紀州田辺藩との混同を避けるため城名の雅称舞鶴にちなんで舞鶴藩と改称され,同時に城下町も舞鶴と呼ばれるようになり,1889年舞鶴町が成立。その後軍港都市として中舞鶴・東舞鶴がつくられたため,舞鶴町は西舞鶴と通称されるようになった。1938年舞鶴市となる。

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大辞林 第三版の解説

たなべ【田辺】

和歌山県中部にある市。製材のほか、田辺湾に臨む漁港で水産加工が盛ん。古くは牟婁津むろのつと呼ばれ、海上交通および熊野街道の要地として栄えた。

たなべ【田辺】

姓氏の一。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田辺
たなべ

京都府南西部、綴喜(つづき)郡にあった旧町名(田辺町(ちょう))。1997年(平成9)名称変更して市制施行、京田辺市となる。[編集部]

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精選版 日本国語大辞典の解説

たなべ【田辺】

[一] 和歌山県南西部の地名紀伊水道の田辺湾に臨む。古くから牟婁津(むろのつ)と呼ばれた港町であり、熊野街道の要所として発展。漁業のほか、製材と木材加工、ボタン、かまぼこの製造がさかん。昭和一七年(一九四二)市制。
[二] 京都府舞鶴市の中心の一つ、西舞鶴の旧称。旧加佐郡舞鶴町。舞鶴湾の湾奥(西港)にある港町で、江戸時代は牧野氏三万五千石の城下町として発達。
[三] 京都府南部、木津川中流の西岸の地名。一休が再興した酬恩庵一休寺)があり、一休の墓もある。JR片町線(学研都市線)、近鉄京都線が通じる。平成九年(一九九七)市制施行し、京田辺市となる。

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