田手村(読み)たでむら

日本歴史地名大系 「田手村」の解説

田手村
たでむら

[現在地名]三田川町大字田手字田手・田手宿たでしゆく吉野よしの

長崎街道の田手宿を中心に発展。背振せふり山地から南に延びた舌状丘陵地の東麓で、田手川沿いに南北に広がっている。吉野ヶ里甕棺墓から弥生時代の人骨とともに貝輪や青銅製の細形銅剣も発見された。

武雄鍋島家文書に、

<資料は省略されています>

とあり、神埼庄内の係争地の沙汰を「田手後藤又二郎」らに命じている。

中世にはこの地にある東妙とうみよう寺と、隣接する妙法みようほう(現神埼町)とともに村名が再々文献に登場する。とくにこの両寺が兵乱の際陣所として利用されたため、戦国の動乱期には幾つかの合戦の記事に田手の名が記されている。

近世の村高は一千四〇〇石余で現三田川町域で最高である(肥前国佐嘉領村々目録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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