白毫寺村(読み)びやくごうじむら

日本歴史地名大系 「白毫寺村」の解説

白毫寺村
びやくごうじむら

[現在地名]市島町白毫寺

美和みわ谷の最西に位置し、東は戸坂とさか村、西は五大ごだい(五六九・二メートル)、南は大野おおの坂を越えて稲塚いなづか村大野(現春日町)。白毫寺の門前村として成立。寺内じない由利ゆりよりなる。寛永一一年(一六三四)亀山藩領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一二六石余・畠高三七石余、柴山あり、日損少しあり。同藩領。国立史料館本元禄郷帳では同藩と幕府の相給。寛延元年(一七四八)全村同藩領となり(文化元年「検地帳」白毫寺保管文書)、幕末まで同藩領。「丹波志」によると同藩領、家数四三。稲塚・古河ふるかわ山田やまだ牛河内うしがわち新才しんさいの五村(現春日町)との共有山があったが、明治三四年(一九〇一)に分割・整理された。

白毫寺村
びやくごうじむら

[現在地名]奈良市白毫寺町

高円たかまど山西北麓、能登のと川南方に所在。西大寺田園目録に「添上郡東六条四里卅六坪内下一段字浦里春日田同所二段字大石」とある大石おおいしは小字として残る。本光国師日記所載の慶長一九年(一六一四)四月二〇日付の水論に関する書状に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報