百引村(読み)もびきむら

日本歴史地名大系 「百引村」の解説

百引村
もびきむら

[現在地名]輝北町上百引かみもびき下百引しももびき

市成いちなり村の南西に位置し、村域の北部浦谷うらんたん川、南部堂籠どうごもり川が流れる。中世から百引村とみえ、近世は百引郷に属した。

〔中世〕

承安五年(一一七五)八月一四日の島津庄政所下文(旧記雑録)に「百引村」とみえ、当村弁済使職に富山氏の祖僧安兼が任命されている。ほぼ同内容の安元元年(一一七五)一二月日の島津庄政所下文(同書)があり、同二年七月日の島津庄留守某下文(同書)には「百疋村」とある。大隅国建久図田帳には島津庄寄郡内として「小河院内百引村十三丁四丈」と記され、建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)にも寄郡内に小河百引村一三丁四丈とあり、一丈三尺八分の石築地役を負担している。建武二年(一三三五)島津貞久が大隅国島津庄寄郡内の百引村など九ヵ所の地頭領知分預所職に補任されている(同年一〇月七日「太政官符」島津家文書)。同三年二月に臨済宗聖福しようふく(現福岡市博多区)に百引村一三丁四丈が寄進されたことが、観応元年(一三五〇)六月二四日と推定される島津庄大隅方寄郡田数注文(旧記雑録)にみえる。同年に道鑑(貞久)は、肝付兼隆の拠る加世田かせだ城攻略に軍功のあった野上田時盛に大隅国寄郡内の「百引村地頭代官職」を宛行っている(同年五月二七日「島津道鑑宛行状」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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