島津貞久(読み)しまづさだひさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津貞久」の意味・わかりやすい解説

島津貞久
しまづさだひさ
(1269―1363)

南北朝時代武将。文永(ぶんえい)6年4月8日生まれ。父は島津忠宗(ただむね)。初め鎌倉幕府方であったが、足利尊氏(あしかがたかうじ)方となり九州、畿内(きない)各地で働き、南九州の宮(みや)方と対抗し、守護の領国経営のため薩摩(さつま)の碇山(いかりやま)城を居城とし、薩摩国、大隅(おおすみ)国の守護職(しゅごしき)を兼ねた。薩摩、大隅の各地で戦い、とくに薩摩を本領とし、守護大名へと展開する基礎を固めたが、鹿児島、谷山(たにやま)などでもしばしば苦戦している。のち守護職を分割相続させた。貞治(ていじ)2年7月3日没。95歳。墓は出水(いずみ)感応寺(かんのうじ)(鹿児島県出水市野田町)の五廟社(ごびょうしゃ)、本立寺(ほんりゅうじ)五道院(ごどういん)跡(鹿児島市清水町)、天徳寺(てんとくじ)跡(日置市吹上町)にある。

三木 靖]

『山本正誼編『島津国史』(1972・鹿児島県地方史学会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「島津貞久」の意味・わかりやすい解説

島津貞久 (しまづさだひさ)
生没年:1269-1363(文永6-正平18・貞治2)

鎌倉・南北朝時代の薩摩・大隅国守護。島津氏5代。忠宗の嫡男,母は三池道知女。上総介。法名道鑑。1325年(正中2)襲職。33年(元弘3)少弐・大友氏とともに鎮西探題北条英時を博多に攻め滅ぼす。35年(建武2)足利尊氏に応じ,出京して各所に戦功あり,帰国後拠城を川内せんだい)碇山(いかりやま)城におき,各地に南朝方豪族と戦い領国の経営につとめた。第3子師久,第4子氏久にそれぞれ薩摩,大隅国守護職を分譲。以後島津氏は総州家,奥州家の2流に分かれる。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津貞久」の解説

島津貞久 しまづ-さだひさ

1269-1363 鎌倉-南北朝時代の武将。
文永6年生まれ。島津忠宗(ただむね)の長男。島津氏5代。文保(ぶんぽ)2年(1318)薩摩(さつま)守護職をつぐ。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年足利尊氏の倒幕の呼びかけに応じ,少弐貞経(しょうに-さだつね),大友貞宗とともに挙兵し,鎮西探題赤橋英時(ひでとき)を討つ。功により,日向(ひゅうが),大隅(おおすみ)の守護職を得る。南北朝対立後も,尊氏にしたがい南朝方とたたかった。貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年7月3日死去。95歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津貞久」の意味・わかりやすい解説

島津貞久
しまづさだひさ

[生]文永6(1269).薩摩,山門院?
[没]正平18=貞治2(1363).7.3. 鹿児島
鎌倉,南北朝時代の薩摩守護。忠宗の長子。鎌倉幕府の鎮西探題北条英時を滅ぼし,北条氏に没収されていた大隅,日向守護職を諸豪族の反乱を押えて回復。南北両朝分裂後は,おおむね幕府方に属した。正平 18=貞治2 (1363) 年薩摩守護職を師久に,大隅守護職を氏久に譲った。

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367日誕生日大事典 「島津貞久」の解説

島津貞久 (しまづさだひさ)

生年月日:1269年4月8日
鎌倉時代後期;南北朝時代の武将;三郎左衛門尉;上総介
1363年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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