1877(明治10)年に起こった、西郷隆盛が率いた鹿児島県士族を中心とする反政府暴動。明治政府に対する不平士族の最大で最後の反乱。征韓論争に敗れた西郷が郷里の鹿児島で私学校を設立。この生徒が中心となり挙兵したが、官軍に鎮圧され、西郷が同年9月に自決し終わった。
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1877年(明治10)鹿児島私学校派を中核とする九州の士族が、西郷隆盛(さいごうたかもり)を擁して起こした反政府内戦。
[毛利敏彦]
西南戦争の背景には士族の強烈な反政府風潮があった。廃藩置県後、近代化を急ぐ政府は、秩禄(ちつろく)処分、徴兵制、廃刀令など領主制解体の政策を強行したので、士族の地位と生活が激変し、彼らは封建的特権を奪われて大量に没落した。しかも、維新の功績に慢心した政府高官は、専制的傾向を帯び、腐敗状況も現れたので、士族の反政府気分は高まった。
1873年の朝鮮使節派遣をめぐる政府分裂(いわゆる明治六年の政変)で西郷隆盛、板垣退助(いたがきたいすけ)らが下野すると、これに続いて鹿児島や高知出身の近衛兵(このえへい)多数が辞職、帰郷し、反政府士族グループの核となった。鹿児島県では、桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)、村田新八(むらたしんぱち)らが私学校を組織し、士族の教育、共済にあたった。県令大山綱良(つなよし)(旧薩摩(さつま)藩士)は、私学校派士族と結び、彼らを県政の要職に任命し、政府の集権政策に抗して独自の経済・社会政策を進めたので、鹿児島県は政府に敵対的な独立国の観を呈した。また、士族の反政府風潮を背景に、74年以来、憲法制定、国会開設を求める自由民権運動が高まり、板垣ら土佐立志社(りっししゃ)士族がその中心となった。これに対し、政府の大久保利通(おおくぼとしみち)や伊藤博文(ひろぶみ)は、75年の大阪会議で板垣らの入閣を図り西郷派を孤立させようとした。
1876年に入ると、反政府状況はいっそう深刻になった。地租改正に不満を抱く農民は、茨城、三重、愛知、岐阜、堺(さかい)(現在の大阪府の一部および奈良県)などの各県で大一揆(いっき)を起こし、政府に衝撃を与えた。他面、熊本(神風連(しんぷうれん))、福岡県秋月(あきづき)、山口県萩(はぎ)(前原一誠(まえばらいっせい))など各地の士族は相次いで反乱を起こしたが、彼らは西郷の決起を期待していた。西郷は、好むと好まざるとにかかわらず、士族の反政府運動のシンボル視されるに至った。このような難局に直面して、政府は鹿児島士族を反政府の拠点とみなし、その掃滅を図って、密偵派遣など内部破壊工作を試みた。
[毛利敏彦]
鹿児島に退隠した西郷は、自適の生活に終始し、各地の士族反乱にも呼応せず自重していた。しかし、政府と鹿児島士族間の緊張が激化すると、彼は、その本意に反して鹿児島士族の反政府運動の先頭に推し挙げられた。1877年1月、政府は、鹿児島草牟田(そうむた)陸軍火薬局の火薬が私学校派の手に渡るのを警戒し、県庁にも連絡せずにひそかに搬出を試みた。このことは私学校派を強く刺激し、同月30日夜以後、彼らの一部が、陸軍火薬局ならびに磯(いそ)海軍造船所付属火薬庫を襲って弾薬を奪った。ここに、政府の挑発的な密偵派遣と相まって、私学校派の怒りは爆発、いまや西郷もこの勢いを抑えることはできなかった。2月15日、1万3000の鹿児島士族は、政府密偵の中原尚雄(たかお)少警部らが帰郷して西郷暗殺を企てた件の尋問を理由に、西郷を擁して武装上京に立ち上がった。九州各地の反政府士族も呼応決起した。彼ら鹿児島以外から参戦したものを党薩(とうさつ)諸隊という。そのなかには、民権派の平川唯一、宮崎八郎(熊本)や増田宋太郎(そうたろう)(中津)らのグループもいた。西南戦争は武力による自由民権運動の側面を帯びていたといってもよい。
[毛利敏彦]
西郷軍は、2月22日、熊本城にある熊本鎮台を強襲したが、司令長官谷干城(たにかんじょう)以下の守兵は懸命に防御したので、西郷軍は包囲作戦に転じた。政府は2月19日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋(やまがたありとも)、海軍中将川村純義(すみよし)を参軍に任命し、征討軍団を派遣した。当初政府首脳は、反乱軍に西郷が参加しているかどうか疑っていたが、西郷の従軍が明らかになったので、2月25日、西郷の官位を取り消した。
装備と人員に勝る政府軍は、4月15日、激戦のすえ熊本城の包囲を解くのに成功し、以後攻勢に移った。守勢に回った西郷軍は、日向(ひゅうが)地方に転じて再起を図ったが、6月1日人吉(ひとよし)、7月24日都城(みやこのじょう)、同31日宮崎、佐土原(さどはら)を失い、長井村に追い詰められて解散し、一部が西郷を擁して政府軍の包囲を脱出、鹿児島に帰って城山(しろやま)に籠(こも)った。9月24日城山も陥落、西郷以下、桐野、村田、池上四郎(いけがみしろう)、辺見十郎太(へんみじゅうろうた)、別府晋介(べっぷしんすけ)らが枕(まくら)を並べて討ち死にし、半年に及ぶ戦闘は終結した。西郷軍の総兵力は3万余、うち1万3000は私学校派、1万は中途よりの徴募兵、残り1万は党薩諸隊であり、戦死6000前後、戦後斬罪(ざんざい)22を含んで2760余が処罰された。政府軍の総兵力は5万8600、艦船19隻、戦死6800余であった。
[毛利敏彦]
西南戦争は、最大かつ最後の士族反乱であった。政府はこの反乱を乗り切って権力的基礎を確立した。他面、自由民権運動は武力闘争にかえて、組織と言論を通じて民衆に働きかける方向に転じた。また、巨額の西南戦費支出はインフレーションを引き起こし、日本資本主義の原始的蓄積を推し進めた側面も見落としてはならない。
[毛利敏彦]
『『鹿児島県史 第3巻』(1941・鹿児島県)』▽『黒龍会編『西南記伝 中の1・2』(1909・黒龍会本部/復刻版・1969・原書房)』
1877年(明治10)に起こった西郷隆盛を中心とする鹿児島県士族の反政府暴動で,明治初年の士族反乱の最大で最後のもの。
明治6年10月の政変(1873,征韓論分裂)で,近衛都督兼参議を辞した西郷隆盛が郷里鹿児島に帰るや,桐野利秋や篠原国幹らも相ついで辞職・帰県し,私学校などを中心に,鹿児島士族は一大勢力をなした。県令大山綱良もこれを支持して,内務省(卿は大久保利通)の督促にもかかわらず県内の改革は進まず,〈鹿児島県は一種独立国の如き有様〉(《木戸孝允日記》明治10年4月18日条)を呈した。それだけに佐賀の乱以後の相つぐ士族反乱で,反乱士族の熱い目は鹿児島県士族の上に注がれたが,西郷は動こうとしなかった。時に明治政府は西郷に出府を促した。しかし彼は応ぜず,むしろ当時の政府の力ずくの対朝鮮政策は〈天理〉にもとる恥ずべき行為だ,と批判したりしていた。もとより,それは士族に対する政府の特権剝奪政策への批判と対応していた。明治政府は鹿児島県士族の動向を探るために警視庁少警部中原尚雄らを派遣するとともに,鹿児島県属厰の兵器・弾薬を大阪に運搬させた。このことが私学校党の疑惑をよび,77年1月末の私学校党の兵器・弾薬等の奪取行動となり,西南戦争の発端となった。
政府は当初,私学校党の行動と西郷とは別のものと見,事実,西郷はそのとき大隅地方に遊猟中であった。急きょ鹿児島に帰った西郷は,続々と集結する私学校党をはじめとする約1万2000の人々と行動することをやむなしと決意し,本営を鹿児島城山の旧廐址におき,2月中旬,全軍を7隊に分かち熊本鎮台へと向かわせた。これに投ずるものは日向の飫肥(おび),佐土原,高鍋,延岡および肥後の士族らで,総勢3万に達したという。2月26日,元老院議官柳原前光(さきみつ)が勅使として鹿児島へ派遣された。征討の布告,西郷や桐野,篠原らの官位剝奪の伝達,県庁への指令など臨機の処理をとるためであった。その柳原は右大臣岩倉具視への復命書で,決起した西郷の胸中を推しはかり,〈此時に当り,反するも誅せらる,反せざるも誅せらる。如(し)かず,大挙して先発せんと。遂に決意東上す。是れ西郷の暴動する所以なり〉と述べた。確かに政府は,この西郷の決起を機会に,士族反乱への徹底的鎮圧のてこにしようと考えていたのである。
2月下旬,熊本城は薩軍に包囲されたが,鎮台司令長官の陸軍少将谷干城がこれを死守し,博多から南下した政府軍と薩軍との間には激戦がくり返された。小倉分営の第14連隊長心得乃木希典少佐が薩軍に軍旗を奪われたのもこのときである。3月に入り,田原坂の激戦となった。熊本城の包囲は4月以後の政府軍の進撃で解かれ,陸海呼応した政府軍の前に薩軍は後退,9月1日政府軍が鹿児島へ入り,24日の総攻撃で薩軍は壊滅した。西郷は城山に斃(たお)れた。時に西郷51歳。政府軍は10月10日東京に凱旋した。政府は長崎に臨時裁判所を設けて大山綱良ら2764人を斬懲役以下の刑に処し,4万0249人を免罪,449人を無罪にした。西南戦争に関する数字は,史料によって相当異なるが,圭室諦成(たまむろたいじよう)著《西南戦争》によれば政府軍は5万8558人,使用艦船19隻(1万4112トン),軍費4156万円余とされている。《陸軍省第三年報》では政府軍の死傷者合計1万6195人(うち,戦死・戦傷死6527人),これに対する薩軍総計4万余人中,死傷者は約1万5000人で,彼らは〈死ヲ以テ自ラ期スルノ勢アリ〉といわれる。いかに激戦になったかが推測できる。
西南戦争の歴史的意義として第1には,もっとも勢力のあった鹿児島県士族を中心とする最大の士族反乱が,〈土百姓〉の鎮台兵といわれていた徴兵制軍隊によって鎮圧されたことがあげられる。軍事力は士族の独占とみられていたそれまでの一般的観念が現実に打ち破られ,以後の徴兵制を軌道に乗せた。第2には,近代的装備と編成による軍事力がいかに強力であるかが実証された。とりわけ通信による情報の伝達の速さが,薩軍と政府軍の落差を大にするとともに,情勢の大局的判断を大きく左右した。また薩軍が海軍力をもたなかったことも決定的であった。第3に,この西南戦争では農民一揆とこの反乱とが結びつくことがなかった。各地の士族は薩軍に呼応したものの,おりから高まっていた農民一揆はついにこの反乱に応じなかった。いやそれを分断するためにこそ,西南戦争勃発直前の1877年1月4日に,政府は地租減租の詔勅を出し,地租率をこれまでの100分の3から100分の2.5へと引き下げた。木戸は西南戦争が起こったあとでさえ〈竹槍連〉ほど恐ろしいものはない,といっていたのである。政府の分断政策は功を奏し,政府の行政改革はこれを機にいっそう推進された。第4に,この反乱の性格そのもののもつ意味である。西南戦争勃発後の1877年3月,東京で刊行された西野古海編《鹿児島追討記》は,この反乱は〈良民〉の〈自由〉を伸ばすものでも,〈公衆〉の〈民権〉を保護するものでもなく,また〈国憲〉を定め,〈自由〉を興起するためでもなく,〈私権私威〉〈私利私栄〉を求め,〈私憤〉〈私怨〉のためのものだ,と論じた。つまり,士族の特権擁護の軍事反乱にすぎないと断じていたのである。その敗北の結果,こうした士族反乱はあとを絶った。そして反政府運動は,すでに開始されていた自由民権運動へ席を譲った。自由民権運動がその後急速に展開する一斑の理由である。なお西郷の死に対する民衆の同情と共感は,いわゆる〈西郷伝説〉として尾を引く。また福沢諭吉は西南戦争直後の1877年10月に,西郷弁護の《明治十年丁丑公論》(公表1901)を執筆した。
→士族反乱 →征韓論
執筆者:田中 彰
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1877年(明治10)西郷隆盛ら鹿児島県士族による最大にして最後の士族反乱。73年の征韓論をめぐる政変で下野した西郷は鹿児島に私学校を設立し,彼のもとに結集した士族とともに反政府勢力として私学校党を形成した。西郷は各地の不平士族の決起要求には応じなかったが,77年政府による鹿児島からの武器弾薬の搬出や密偵事件を機に決起,2月15日約1万3000人の兵を率いて鹿児島を進発し,九州各地の不平士族もこれに加わった。西郷軍は2月下旬熊本城の鎮台を包囲する一方で,南下してきた政府軍と激戦をくり返したが,3月4日からの田原坂(たばるざか)(熊本市北区)の戦で死闘の末に敗北,4月14日城の包囲を解いて撤退した。以後西郷軍は各地の戦闘に敗れ,8月17日に宮崎県長井村(現,延岡市)で全軍を解散し,精鋭数百人で鹿児島に戻って再挙をはかった。しかし政府軍は9月24日に西郷らがこもる城山を総攻撃,西郷以下約160人が戦死した。戦争は徴兵中心の政府軍の勝利に終わり,以後は自由民権運動が反政府運動の主体となった。
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…歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6)ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から,明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。さらに,明治時代を時期区分するとすれば,まず1877年の西南戦争までの明治維新期,ついで1890年までを自由民権運動と明治憲法体制の成立の時期として区切ることができ,さらに日清戦争を経て1900年前後までの帝国主義成立期,それ以後の日露戦争をはさむ帝国主義確立の時代に区分することが可能である。
【維新の変革】
ペリー来航を契機とする幕末の激動は,尊王攘夷運動から公武合体運動を経て討幕運動へ,京都朝廷を擁して新しい政治体制を創出しようとする政治勢力と,徳川幕藩体制を再編して将軍を中心とする支配体制を温存しようとする勢力とが直接対抗する政治情勢を軸に展開する。…
※「西南戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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