目角村
めすみむら
米子道笑町の南にあり、東は上飯生村。法勝寺往来がほぼ南へ走る。村名は寛永(一六二四―四四)頃まで目組村といったとされ(伯耆志)、正保国絵図には目組村とある。元禄・天保両郷帳では目角村だが近世末に目組村に復したらしく、旧高旧領取調帳では目組村とある。当村の開発について、「伯耆志」は長井氏先祖の伊予浪人が米子に来て、南方湿地帯の当村を開墾したとしているが、その時期は不明。拝領高は三一七石余、本免は四ツ五分。米子荒尾氏の給所であった(給人所付帳)。寛永一〇年から坂鳥役銀を上納し、同一四年停止された(在方御定)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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