矢賀村(読み)やがむら

日本歴史地名大系 「矢賀村」の解説

矢賀村
やがむら

[現在地名]東区矢賀町・矢賀一―六丁目・矢賀新やがしん町一―五丁目・東山ひがしやま

温品ぬくしな川下流右岸にあり、安芸郡に属した。村の西部には標高七〇―八〇メートルの南北に長い丘陵がある。北は中山なかやま村、東は府中ふちゆう(現安芸郡府中町)に接する。「屋賀」とも書き、中世には佐東さとう郡とされることもあった。

正応二年(一二八九)正月二三日付沙弥某譲状(田所文書)に「一所畠二反 矢加村」とあり、有力在庁官人田所氏の私領があったことが知られる。なおこのとき矢加やが村は府中の一部とされている。室町時代は武田氏の治下にあり、応永一四年(一四〇七)武田信之から熊谷氏に預けられているが(同年一月二〇日付「武田信之預ケ状」熊谷家文書)、のち武田氏家臣渋谷氏に与えられたようである(弘治二年一〇月二三日付大内義長宛行状「閥閲録」所収白井友之進家文書)。中山・尾長おなが・矢賀三村の境にある大内越おおちご峠の名は、天文一〇年(一五四一)銀山かなやま(跡地は現安佐南区)の武田氏を倒した大内軍が、府中の白井氏攻撃にこの峠を越えたのにちなむと伝える。

矢賀村
やがむら

[現在地名]南区西蟹屋にしかにや一―四丁目・南蟹屋みなみかにや一―二丁目・荒神こうじん町・西荒神にしこうじん町・東荒神ひがしこうじん町・猿猴橋えんこうばし町・東駅ひがしえき町、東区東蟹屋ひがしかにや

猿猴川の北東岸に位置し、北西は猿猴橋町および東西両愛宕あたご(現東区)、東南は大須おおず新開に接する。城下新開組に属した。

元和五年(一六一九)の安南郡絵図に大須賀おおすがとよばれる三角州の南縁に半円形の新開地矢賀新開が、寛永年間広島城下絵図には猿猴橋町の南に矢賀新開が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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