荒神町(読み)こうじんちよう

日本歴史地名大系 「荒神町」の解説

荒神町
こうじんちよう

上京区猪熊通下立売上ル

南北に通る猪熊いのくま(旧猪隈小路)の両側町で、町の北は出水でみず(旧近衛大路)。平安京の条坊では左京一条二坊二保三町の東から同六町の西の地で、官衙町の「修理職」の西から「内蔵寮」(「拾芥抄」は内蔵町)の跡地(拾芥抄)。平安中期以降は猪隈小路近衛大路このえおおじ南の地。

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)から、当時この辺りに酒屋があったことがわかる。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「荒神丁」とみえ、以後この呼称が多く用いられた。

明治維新前は上古京聚楽組の猪熊組に属し、三五軒役を負担。


荒神町
こうじんちよう

[現在地名]倉吉市荒神町

江戸期の武家屋敷地。初め神坂かんざか村の一部で、のち市街化した。町名は明治初期の成立とされ、南はひがし町、西は同町の大岳だいがく院およびさかえ町一丁目・堺町二丁目(かつての上横町・下横町)、東はみなと町。天文一三年(一五四四)の大洪水で見日みるか千軒が流失した際、住民が大松おおまつ荒神を奉じて当地に移住したのが町の始まりと伝えられる。大松荒神は今も荒神社として祀られ、町名の由来となったとされる。元禄(一六八八―一七〇四)頃と推定される倉吉古地図(倉吉町誌)によると、東西に走る津山往来北側西端に大岳院があり、その東はすでに武家屋敷地となっている。


荒神町
こうじんちよう

下京区醒ヶ井通仏光寺下ル

南北に通るさめ通を挟む両側町。町の西側は東堀川通(旧堀川小路)にも面する。

平安京の条坊では左京五条二坊四保一一町の地。

中古京師内外地図によると、当町一帯に「荒神」とある。泉涌せんにゆう(現東山区)の荒神とともに荒神信仰で名高かったきよし荒神があり、町名もこれに由来する。現在、町内東側に天台宗観音かんのん寺があり、寺伝によると延暦七年(七八八)最澄の開基観音菩薩本尊とした。後、至徳年中(一三八四―八七)摂津国勝尾かつお山より荒神の像を移し、清荒神と号したという。


荒神町
あらがみちよう

[現在地名]水戸市城東じようとう一―二丁目

東は赤沼あかぬま町。元禄三年(一六九〇)荒神町見付あらがみまちみつけから荒神橋までを荒神町と名付けた。赤沼町にあった三宝荒神さんぽうこうじんの祠に由来する。当町の南側西の角に芝地があり、武者溜むしやだまりといわれた。また町の北およびいちノ町・ノ町辺りを川崎かわさきという。中世の川崎郷の遺称地。


荒神町
こうじんまち

[現在地名]南区荒神町・東荒神ひがしこうじん町・西荒神にしこうじん町・猿猴橋えんこうばし町、東区東蟹屋ひがしかにや

矢賀やが村のうちに形成された町で、古くは矢賀新やがしん町と称したが、寛保(一七四一―四四)頃この付近に火災がしばしばあったため、延享二年(一七四五)火難防止のため町内の荒神社にちなんで荒神町と改称。江戸中期以降新開組諸村には新町の形成が著しく、とくに城下東部の山陽道に平行する裏通に市街地の発展がみられるが、当町もその一つであった。


荒神町
こうじんちよう

上京区荒神口通河原町東入並びに西入

東西に通る荒神口こうじんぐち通の北側の町で、南の一部護浄院を含む。西は寺町てらまち通。町の北の地域は寛仁三年(一〇一九)藤原道長が創建した法成ほうじよう寺の跡地(拾芥抄)

町名は、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「寺町通革堂観音の北のかたより東入町をば荒神町と名づけて只一町あり その町の南がわに三宝荒神の堂あり、其町の東は川原表に出る」とみえる。「坊目誌」は、文禄年中(一五九二―九六)以来この町名でよばれていたとする。


荒神町
こうじんまち

[現在地名]長野市松代町荒神町

町人町の最北にあり、谷筋道を須坂へ向かう道に面する。町の中央西側に荒神堂があることからこの名称がある。町の北口に柵が置かれ、寺尾口てらおぐちと称した。町の中央から下田町へ抜ける横町を千日小路という。千日堂と称した念仏堂があったからである。その南に松代藩の牢が置かれ、そこに至る道を牢屋小路といった。寛文一一年(一六七一)の寛文間帳に家数五九軒、安政七年(一八六〇)の書上では人口三四五人(男一六六人、女一七九人)とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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