朝日日本歴史人物事典 「石川台嶺」の解説
石川台嶺
生年:天保14.1.1(1843.1.30)
幕末・明治初期の真宗の僧。明治4(1871)年の三河大浜事件の指導者として有名。三河国(愛知県)順成寺了皆の子。慶応2(1866)年,石川了英の養子となり,同国蓮泉寺に入寺した。明治1年にキリスト教研究の目的で東本願寺が設置した護法場に入り,闡彰院空覚に師事,東本願寺改正運動にもかかわった。同2年,三河において星川法沢らと三河護法会を結成し,その幹事役となる。その翌年,西三河地方の菊間藩大浜出張所(碧南市)に赴任した小参事服部純が,管下寺院に寺院合併などの下問を行ったことに対し,三河護法会のメンバーは敏感に反応,同4年3月8日暮戸の会所に僧俗約150人が結集し,服部の政策を廃仏ととらえ,護法意識からこれを糾弾すべく大浜へ向かった。台嶺はこの一連の動きを主導したが,大浜付近の鷲塚での役人との交渉が決裂,その際随行員藤岡薫の殺害におよぶ暴動を起こした罪状により,殺害の直接の犯人榊原喜与七と共に,首謀者として処刑された。この大浜事件は,明治政府の進歩的政策に対する反動的封建的抗議であるとの否定的な評価もあるが,明治政府の思想的迷妄に対決したという意味で,のちの大教院批判などに先行する宗教運動であったとの積極的評価もみられる。<著作>『幽囚日誌』<参考文献>『菊間藩事件顛末書』,北西弘『三河大浜事件の研究』
(草野顕之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報